稲の花帰る時間に帰れない

散文
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田んぼ一面に広がる稲の花が、柔らかな風に揺れている。秋の空は高く澄んで、穏やかな光がその花々を優しく照らしている。その景色を目にしていると、帰るべき時間が近づいていることを思い出すが、足は自然と止まってしまう。稲の花が咲くこの時期に感じる静けさと、心に広がる焦燥感が、不思議な対照を描いている。

時が経つにつれ、日も次第に傾き、夕暮れの色が田んぼの風景に溶け込む。だが、帰る時間は刻一刻と迫っているのに、どこか体が動かない。心の奥で何かが引き留めるようだ。稲の花は、自然の中で当たり前のように時間を刻んでいるが、自分だけがその流れから外れているように感じる。その瞬間に感じるのは、日常のリズムからの微妙な逸脱だ。

帰るべき場所、帰るべき時間――その全てが、目の前の風景と同じくらい確かなはずなのに、この夕暮れの中では曖昧なものに感じられる。稲の花が放つかすかな香りが風に乗って漂い、それがさらに自分をこの場に縛りつける。すぐに戻らなければならないのに、なぜか心がこの穏やかな景色に溶け込み、時間の感覚がぼやけていく。

やがて、夕闇が一層濃くなり、そろそろ帰らなければならないことを意識する。けれども、まだ少しだけ、稲の花の中に佇んでいたいという気持ちが、心の奥で静かに囁いている。時間が過ぎ去る感覚と、戻れない一瞬の美しさが交錯するこのひととき。稲の花が咲き、風が吹き、ただその場にいることが、何よりも心を満たしている。

結局、帰る時間に帰れなかったとしても、この秋の夕暮れに立ち止まった瞬間は、どこか特別な意味を持ち続けるだろう。季節の移ろいとともに、時間というものの不思議さを感じながら。

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