シーソーの釣り合う長さ年の暮

散文
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冬の公園、薄く染まる夕暮れの光の中に、錆びついたシーソーが静かに佇んでいる。寒さのせいか、人影は少なく、風が低く唸る音だけが響いている。そのシーソーの片側に腰掛ける子どもと、反対側に立つ親。それぞれの重さが釣り合い、シーソーは水平を保つ。上下に揺れるその微妙な動きが、冬の空気の中でどこか静けさを帯びている。

釣り合いというものは、必ずしも重さだけで決まるわけではない。親の方は、子どもの小さな体重に合わせるように力加減を調整し、バランスを取る。シーソーの中央に寄りすぎると崩れ、遠すぎると傾く。その絶妙な距離感と重心の取り方が、静かに揺れる年の暮れを象徴しているように感じられる。

年の暮れというのは、まさにこうしたバランスの上に成り立つものだ。過ぎ去った一年の出来事を振り返り、足りなかったものと得たものの重みを計り直す。未来に向けた期待と、不安の重さが交差する中で、それらをいかに釣り合わせるか。それはシーソーの上に座るような、繊細な感覚が求められる。少しでも過去に重心を置きすぎると、未来が遠のき、逆に先を急げば今を見失ってしまう。

シーソーの釣り合いが保たれている時間は、短いながらも貴重だ。その短い瞬間の中に、過去と未来、そして今が調和する奇跡が宿る。子どもと親が見つめ合い、微笑みながら互いの体重を感じ取るように、私たちもまた、自分自身と向き合い、重みを分かち合う必要があるのだろう。

夕闇が濃くなり、風が冷たさを増す中で、親子はシーソーを降りて帰路につく。だが、その釣り合いのひとときは、確かに年の暮れの静かな余韻として心に残る。シーソーが静かに止まり、また傾くその瞬間まで、私たちはその平衡の感覚を胸に抱き、新しい年へと歩みを進めるのだろう。

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