知育菓子

エッセイ
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知育菓子を作った日のことを思い出す。娘の前に広げた小さなトレーの上には、色とりどりの粉袋と、妙に未来的なプラスチックの型。説明書は細かい字と図でびっしりで、対象年齢の数字を二度見したくなる。「これ、ほんとに子ども向けか?」と、心の中でつぶやきながら私は心のエプロンを結ぶ。

それはチョコフォンデュを模した知育菓子だった。イチゴゼリー、バナナ、パンケーキ――と言っても、当然本物ではない。バナナの形をした練り物のお菓子、パンケーキ“風”の何か、ゼリー“っぽい”半透明の物体。水を混ぜて、こねて、型に詰めて、電子レンジで何秒。レンジの中でターンテーブルが回るのを、娘と並んでじっと見つめる。チン、という音がやけに達成感を帯びて響く。

あれは2年前のことだ。下の子の里帰り出産で、妻の実家に滞在していた頃。畳の匂いがして、窓の外では洗濯物が風に揺れていた。娘はその頃、知育菓子に夢中で、スーパーに行くたびに「お菓子一個選びな」と言うと、迷いなくそれを手に取った。作るのは好き、らしい。でも工程が多い。多すぎる。明らかに大人の介入を前提としている。結局、私が代わりにやることになる。

やがて1年ほど経つと、私は予防線を張るようになった。「それ選んでも、パパは作らないからね。娘ちゃんが作るか、ママにお願いしてね」

娘はうなずくが、作業はだいたい妻に回る。最近はあまり買わなくなったが、ねるねるねるねだけは別枠で生き残っている。あれは娘ひとりでも作れるようになったからだ。

不思議なのは、知育菓子が好きなわりに、娘があまり食べないことだ。正直、大人から見てもあまり美味しそうではない。というか、ちょっとまずそうだ。カラフルでツヤツヤしているが、味の想像がつかない。「これ誰が食うんだろうな」と思いながら、完成品を眺める。

ねるねるねるねに至っては、娘は粉しか食べない。最後にまぶす甘いふりかけ的な粉だけ。水を混ぜてふわふわになった“本体”は、ほとんど手つかずで残される。皿の上でしぼんだ淡い色の塊を見ていると、なんだか人生の途中経過を置き去りにされた気分になる。

たぶん娘は、味よりも工程や見た目が好きなのだ。粉が色を変え、形になり、キラキラする。その一連の「変わっていく感じ」。知育菓子という名前は、味覚ではなく、視覚と手触りを育てるという意味なのだろう。そう思いながら、今日も使われなかったスプーンを洗い、レンジの中に残る甘い匂いを少しだけ吸い込んだ。

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