妻と合流して、駅前の旅行代理店に入る。ガラス張りの店内は、午後の光が少し白く反射して、パンフレットの海だけがやけに色鮮やかだった。ハワイの青は日本の紙の上でも十分に主張が強く、見ているだけで日焼けした気分になる。
相談内容はハワイ旅行について。2025年の春、家族全員で行く初めての本格的な海外旅行だ。半年前、空港で捕まった。「今ならヒルトンのキャンペーンで、宿泊費が無料なんですよ」。この「実質」という言葉の魔力。ノットアホテルみたいな、別荘の利用権が買えるらしいサービス。航空券代だけでハワイに行ける、と聞いた瞬間、脳内ではすでにヤシの木が揺れていた。
旅行代理店では、保険、Wi-Fiレンタル、アクティビティと話が進む。聞くたびに、旅とは移動ではなく手続きなのだな、という理解が深まる。特にエスタ。アメリカに入るには必要らしいが、正体がよくわからない。ビザとも違うらしい。そもそもビザって何なんだろう。権利なのか、概念なのか、ただのシールなのか。人類はいつから入国にそんな関門を設けたのか。
「申請にはパスポートが必要です」と店員さん。後日メールでもいいですよ、と柔らかく言われる。ここで私は沈黙を選んだ。実はパスポート、持ってきている。自分のだけ。自分のだけ持っていると言うと妻が「私や子供達のも持ってきてよ」と言いそうな未来が、浮かんだからだ。隣の席で、妻は赤ちゃんをあやしている。赤ちゃんは天井の照明を見つめ、丸い光に視線を送っていた。
しかし結局、コピーするページの確認が必要になり、私は観念してパスポートを取り出した。「あ、持ってました。他の人のはないんですけど……」と、できるだけ低姿勢で。妻は一瞬こちらを見て、何も言わなかった。その沈黙は、言葉よりも情報量が多かった。
次は観光ツアーについて。ハワイ島一周のツアーだという。カウンターの卓上カレンダーを指さしながら、どの日にするか相談する。すでに予定が入っている日があったので、それは避けたい、と話していた……はずなのに、妻が「その日がいい」と言う。「いや、その日はダメなんだよ」と返すと、妻は「その日以外?」と確認してきた。
その瞬間、言葉の不思議に気づく。「その日がいい」と「その日以外」。意味は正反対なのに、音は驚くほど似ている。母音の「アイ」が連続するせいで、耳には「その日が……」くらいまでしか届いていなかった可能性がある。会話というのは、音の綱渡りなのである。
店員さんは終始丁寧で、時々日本語が少しだけ転んでいた。「思うんだったら」というところを、「思うだったら」と毎回言う。その瞬間、言葉が一段、軽くなる。私は心の中でそっとメモを取るが、もちろん指摘はしない。こういうズレは、旅の前触れみたいなものだ。
終盤、赤ちゃんが声を上げ始める。最初は静かに世界を観察していたのに、だんだんと自分も会話に参加したくなったらしい。小さな喉から出る声が、店内に響く。パンフレットのハワイの海も、少しざわめいた気がした。
こうして、手続きだらけの午後は過ぎていった。まだ飛行機にも乗っていないのに、旅はもう始まっていた。書類と会話と勘違いの間を、家族でゆっくり進みながら。

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