回らない寿司

エッセイ
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昼の12時、回転寿司。
レーンの上を流れているのは、マグロでもサーモンでもなく、「本日のおすすめ」とか「今だけ100円」みたいな文字が印刷されたプレートだった。プラスチックの板が、寿司の代わりに淡々と周回している。照明に反射して、やけに清潔で、やけに静かだ。

そういえば、これは2023年。コロナが「終わった」と言い切るには少し気まずく、「もう大丈夫でしょ」と皆が目配せしながら生活していた頃だ。寿司屋も例外じゃなくて、寿司は回らない。正確に言うと、回るべきものが回っていない。レーンは生きているのに、魂が抜けている感じがする。

私は、回っている寿司が好きだ。
乾燥しているとか、いつから回っているかわからないとか、そういう正論は百も承知で、それでも好きだ。回転寿司屋に入ると、まず注文用のタッチパネルを無視して、レーンを見る。目線の高さを流れてくる白い皿、ネタの艶、わさびのはみ出し具合。
「あ、今のうまそう」
そう思った瞬間に、間を置かず取れる。この距離感、この反射神経。衝動と結果がほぼ同時に成立する、あのライブ感がいい。

社会人だったか、大学生だったか、もう忘れたけれど、「回ってる寿司をこんなに食うやつ初めて見た」と言われたことがある。たしかに私はあまり注文しない。もちろん注文もするけれど、それ以上に、流れてきたものを食べる。流れてきたという理由だけで、食べる。
皿の縁にちょっとだけ乾いたシャリがくっついていたり、ネタが微妙にずれていたりするのも含めて、あれは一期一会なのだ。

今、レーンの上を滑っていくのは情報だけ。
寿司は厨房から一直線に、最短距離で私のもとへ届く。効率的で、衛生的で、たぶん正しい。でも、衝動が入り込む余地がない。
私は回らない寿司を食べながら、回っていた頃の寿司を、少しだけ懐かしんだ。

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