桃太郎は昔話としてどのように語り継がれてきたか

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エグゼクティブサマリー

桃太郎は、ずっと同じ顔のまま座っていた昔話ではありません。むしろ、川を流れる桃のように、流れる時代ごとに少しずつ表面を変え、拾い上げる人ごとに意味を変えてきた物語です。いま確認できる年代のはっきりした最古の資料は、享保八年(一七二三)の赤小本『もゝ太郎』ですが、それ以前にも、刊年不明の赤本や後世の複製でしか追えない古い系統があった可能性は指摘されています。ただし、そこはまだ霧が濃く、「確実な証拠」と「研究上の推定」は分けて扱う必要があります。さらに、江戸の版本では、老夫婦が桃を食べて若返り子をもうける回春型が先行し、明治以降、とくに教科書や巌谷小波の再話によって、桃から子どもが生まれる果生型が全国的な「標準形」に育っていきました。つまり、私たちがよく知る桃太郎は、古い核を持ちながらも、印刷文化と学校教育によって磨かれた“近代の顔”をかなり強くまとっているのです。 

その後の歩みも、さらにドラマチックです。地域の口承をたどると、東北・北陸では桃ではなく箱や容器に入って流れてくる型があり、中国・四国地方には、横着者だが怪力をもつ主人公が山仕事や大木の怪力ぶりを経て鬼退治へつながる山行き型が目立ちます。二十世紀に入ると、桃太郎は児童書・唱歌・教科書・ラジオ・アニメ映画へと次々に乗り換え、ついには戦時下で「皇軍」や「日本の子ども」の比喩として使われるまでになります。ところが戦後になると、その使われ方への反省から、いったん語りにくい物語にもなり、かわりに民俗学・児童文学・思想史の側から、桃太郎はなぜ鬼退治に行くのか、鬼は本当に“悪”なのか、家来・性別役割・階級はどう描かれてきたのかが問い直されました。現在の桃太郎は、岡山の観光・土産・交通・祭り・学校教材のなかで生き続けながら、同時に「温羅の側から見る」「鬼と共生する」「ジェンダーの眼で見直す」といった再解釈も進んでいます。桃太郎は、もはや一枚の昔話ではなく、日本社会がその時代ごとに自分を映してきた鏡だ、と言ってよさそうです。 

調査の糸口

今回のテーマをほどくには、一本の糸では足りません。そこで、まず書誌資料で「いつ・どんな本として現れたか」を押さえ、次に本文や解説で「桃から生まれるのか、桃を食べて生まれるのか」「鬼退治の理由は語られるのか」を比べ、そのうえで教科書・唱歌・ラジオ・映画に進み、最後に地域口承と現在の公式利用を重ねて見ました。こうすると、桃太郎の変化が“作者の気まぐれ”ではなく、出版流通、学校制度、戦争、地域振興といった社会の大きな流れに押された結果だと見えやすくなります。とくに口承は、印刷物より古くても証拠が残りにくいので、印刷資料の最古年代がそのまま物語の誕生年ではない、という点が重要です。 

この“証拠の鎖”をたどると、桃太郎は「昔から同じ形で伝わった有名昔話」ではなく、口承の多様性の上に、江戸の版本、明治の教育、二十世紀のマスメディアが順に厚化粧を重ねていった物語だとわかります。以下では、その化粧の重なりを、なるべく年代順に、ただし地域差や後世の読み替えが見えるよう横糸も入れながら追います。 

桃太郎の起源と最古層

まず、いちばん堅い足場から始めます。年代がはっきりした現存最古の桃太郎本としてよく挙げられるのは、享保八年(一七二三)刊の赤小本『もゝ太郎』です。立命館アート・リサーチセンターの書誌一覧でもこの版が最古級として挙げられ、レファレンス協同データベースでも、享保八年の『もゝ太郎』が「出版年のはっきりしたものとして」最も古いと整理されています。ただし同じ調査では、延宝年間・元禄前後・元禄頃・享保頃などに遡る可能性のある刊年不詳の『桃太郎』『桃太郎話』『桃太郎昔語』も研究史上では言及されており、ここに「確実最古」と「もっと古いかもしれない系譜」の差が生まれます。つまり、桃太郎は享保に突然空から落ちてきたのではなく、享保以前の層があった可能性は高いが、今のところ証明の硬さが違う、というのが冷静な言い方です。 

では、その前はどうか。ここがいちばん面白く、いちばん慎重さが要るところです。研究史では、桃太郎が口承の民話として成立したのは室町末期から江戸初期ごろとみる見解があり、桃の霊力というモチーフについては、中国や東アジアに広がる桃の呪力・生殖力・邪気払いの信仰を背景に考える議論もあります。また、鬼ヶ島渡りの武勇譚という骨組みについては、『保元物語』の源為朝の鬼ヶ島渡りを雛形の一つとみる議論もあります。しかし、柳田國男が引用されるかたちで語られるように、桃太郎の話根は「もう本の株は枯れてゐる」ほど古く、いま残る資料だけで一本の起源に戻すのは難しい、というのがむしろ真面目です。さらに、享保以前の口承・文献に確実に出会えていないこと、渋川版『御伽草子』には桃太郎が見えないことも指摘されており、少なくとも「古典説話集にそのまま載っていた完成形が近世まで残った」という図は取りにくいようです。『今昔物語集』についても、今回確認できた範囲では、桃太郎そのものの確実な古典本文としては押さえにくく、むしろ周辺モチーフの比較参照先として考えるほうが無理がありません。 

起源論をもう一歩だけ具体化すると、いちばん効いてくるのは出生モチーフです。加原奈穂子の整理では、桃太郎の誕生には大きく二系統あり、桃を食べた老夫婦が若返って子を産む「回春型」と、川上から流れてきた桃の実から子が生まれる「果生型」があります。そして江戸時代の文献では、前者の回春型が先行する、とされています。国立国会図書館の解説でも、江戸後期の豆本『桃太郎宝蔵入』は、婆が拾った桃を爺と半分食べると二人が若返り、若返った婆が子を産むという筋になっています。ここで見えてくるのは、桃太郎の原層が単なる「フルーツからのファンタジー出産」ではなく、若返り・生殖・子授けの願望をかなり濃く含んでいたらしい、ということです。後世の私たちには、桃がぱかっと割れて赤ん坊が出る図のほうがなじみ深いのですが、それはむしろ整理された“後の顔”でした。 

代表的な言い換えを置くなら、江戸の古い桃太郎は「桃から生まれた英雄」というより、桃に宿る若返りの力が家を再生させ、その延長で怪力の子が生まれる話として読むほうがしっくりきます。この違いは小さく見えて、のちに大きく効きます。なぜなら、回春型は家の再生を強く感じさせ、果生型は個人の英雄誕生に焦点を合わせやすいからです。のちの桃太郎が国家や教育のなかで扱いやすくなった背景には、この焦点移動もあった、と考えると筋が通ります。 

江戸から明治への変身

江戸時代に入ると、桃太郎は口伝えだけの旅人ではなく、版本という舟に乗りはじめます。立命館の書誌一覧を見ると、享保八年(一七二三)の『もゝ太郎』に続き、安永六年(一七七七)頃の『桃太郎昔語』、天明元年(一七八一)の『桃太郎一代記』、文化二年(一八〇五)の『昔話桃太郎傳』、文化九年(一八一一)の『桃太郎』、文政三年(一八二〇)の『昔嘲桃太郎』など、江戸後期にかけて桃太郎ものが多様なかたちで刊行されていきます。国立国会図書館の展示解説も、江戸から明治にかけて子ども向けの赤本・豆本が広く流通し、口承で語られていた昔話が印刷を通じて「読み継がれる」ようになったと説明しています。ここで起きたのは単なる保存ではありません。何度も刷られ、絵入りで売られ、子どもの手に乗る豆本になったことで、桃太郎は語りの幅を持ちながらも、輪郭が見える商品になっていきました。 

しかも江戸の桃太郎は、今の標準形とは少し味が違います。国会図書館の『桃太郎宝蔵入』解説では、老夫婦が桃を食べて若返り、子を産み、十六歳になった桃太郎が鬼ヶ島へ行って宝をとってくると告げ、鬼は命乞いして宝を差し出し、最後は「家は栄えた」と結ばれます。ここでは、鬼退治の道徳的理由や社会正義の説明は薄く、むしろ怪力・宝・家運隆盛が前に出ます。言い換えれば、江戸の桃太郎は「正義の兵士」より、少し福の神寄りの英雄です。宝を持ち帰って家が栄えるところなど、武勇譚というより縁起物のきらめきすらあります。 

この桃太郎が明治になると、ぐっと身なりを整えます。国会図書館の解説によれば、巌谷小波は明治二十七〜二十九年(一八九四〜一八九六)に『日本昔噺』全二十四冊を刊行し、江戸以来の御伽草子や口承昔話をもとにしながら、冗長な展開を避け、より「子ども」を意識した昔話として整えました。加えて、ちりめん本の世界では、長谷川武次郎が明治十八年(一八八五)に “Japanese Fairy Tale Series” のNo.1として英語版『Momotaro or Little Peachling』を出し、その後フランス語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語などでも展開されました。国際子ども図書館の講義録では、弘文社の欧文「日本昔噺」シリーズが巌谷小波の『日本昔噺』にも影響を与えたとされます。つまり明治の桃太郎は、一方で国民的子ども向け物語へ、他方で輸出される日本文化の名刺へ、同時に育てられたのです。 

学校教育の回路に入ると、この変身はさらに決定的になります。全国大学国語教育学会の報告では、教科書に「民話」が初めて登場したのは、一八八七年刊『尋常小学読本』の「桃太郎」でした。国立教育政策研究所教育図書館のレファレンスでも、明治二十年『尋常小学読本 巻之一』に本文中「桃太郎」があり、さらに明治四十四年(一九一一)の『尋常小学唱歌 第一学年用』には「桃太郎」が歌として掲載され、昭和十六年(一九四一)には『ヨミカタ 一』『ウタノホン 上』『エノホン 一』で「モモタラウ」として扱われたことが確認されています。ここで重要なのは、歌詞のなかの「家来になって 行きましょう」という言い方です。江戸の版本では、供はときに交渉相手でしたが、学校唱歌では隊列と服従のニュアンスがはっきりします。桃太郎は、家庭の再生をもたらす子から、教室で唱和される模範的リーダーへと、歩き方を変えていったのです。 

もう一枚、明治の教科書桃太郎の面白いところを付け足すと、日本玩具博物館の展示解説は、明治二十年の『尋常小學讀本』を要約したうえで、鬼をなぜ懲らしめるのか、その理由が語られないまま宝物を持ち帰ることに注意を促しています。ここは実に桃太郎らしい“すき間”です。近代教育は桃太郎を標準化しましたが、その標準形の内部にも、まだ説明されない空白が残っていた。この空白が、のちに文学者や研究者たちの手で、政治・倫理・ジェンダーの問いを呼び込む入口になります。 

地域の語り口とモチーフの揺れ

さて、ここで印刷物の一本道から少し外れて、土地の声に耳をすませます。『日本昔話通観』は一九七七〜一九九〇年にかけて刊行された大規模な昔話集成で、県別の伝承圏を重視して収録したことが特色です。花部英雄の研究にふれた資料では、桃太郎の鬼退治伝承だけでも一五三以上が収集されたとされます。そして加原奈穂子の整理によれば、『日本昔話通観』を見ると、東北・北陸地方には桃ではなく箱や容器に入って流れてくる型があり、中国・四国地方では横着で怪力の主人公が鬼退治に行く話が多いとされます。しかも、岡山で採集された話でも標準型ばかりではなく、鬼退治に行かないものも少なくない。つまり、私たちが知る“あの一本の桃太郎”は、全国の口承から自然に平均化された形ではなく、むしろ多様な語りをあとから押し揃えた標準だとわかります。 

とくに面白いのが、中国・四国地方に分布する山行き型桃太郎です。民話の会の発表資料では、鳥取・岡山・広島・香川・徳島・高知などの事例が並び、たとえば岡山では、大木の怪力ぶりを見た爺婆や殿様が主人公を鬼退治へ向かわせる話、香川では大木で家が倒れたのちタライに乗って海へ出る話、高知では門を通らない大木を地面に置くと地震が起きる話などが見られます。ここでは、桃太郎は最初から鬼ヶ島へ向かう“正義の少年”ではなく、まず日常空間で怪力を持て余す存在として現れ、その力がようやく鬼退治へ接続されます。海へ出る前に山がある。鬼より先に木がある。そんな順番の違いが、地域の生活感をよく映しています。 

さらに、阿波では喜田貞吉が子どものころに「桃太郎」ではなく、「猿が島の敵対」として、蟹の子が桃太郎もどきになり、供に栗・剪刀・挽臼が付く混成型を教えられた、と紹介されています。これは猿蟹合戦のメンバーが桃太郎の隊列に混ざるようなもので、昔話が実はきっちり仕切られた箱ではなく、隣の話と壁を共有する長屋のようなものだったことを教えてくれます。標準型では犬・猿・雉がきれいに並びますが、口承の現場では、英雄譚・怪力譚・動物譚・復讐譚が、もっと自由に交差していたのです。 

この地域差は、単なる“珍しい異文”ではありません。物語が何を重視するかの違いでもあります。標準型は、出生・出立・供の獲得・鬼退治・宝の帰還という、いわばよく整った五段弁当のような構造ですが、地域口承ではそれが崩れ、家の再生、怪力の披露、嫁探し、労働、旅、地震、洪水など、別の主題が前に出ます。だから地域の桃太郎は、中央で磨かれた優等生というより、土地の泥をちゃんと踏んだ物語です。そこに昔話としての生命力があります。 

二十世紀メディアの大きな増幅

二十世紀の桃太郎は、声を大きくします。しかも、拡声器は一つではありません。教科書、唱歌、ラジオ、映画。メディアが増えるたびに、桃太郎は家庭の炉端から一歩ずつ離れ、国家のマイクに近づいていきます。全国大学国語教育学会の報告は、桃太郎が教科書に載るなかで変容し、日清戦争のころから桃太郎を皇軍兵士とみなし、鬼退治を戦争のメタファーとして使う傾向が強まり、太平洋戦争中には挿絵に日の丸が描かれるなど、超国家主義・軍国主義の性格が強まったと指摘しています。ここで桃太郎は、もう単なる“よい子向けの冒険譚”ではありません。戦う国の理想的な子ども像へ作り変えられていきます。 

ラジオでは、その変化がさらに露骨です。J-STAGE掲載の研究によると、国民学校放送の幼児向け童話台本『桃太郎鬼征伐』(一九四四年)では、昔話の征伐がそのまま戦争に置き換えられ、「私は強い兵隊です。鬼共に噛みついて、ウンとやっつけてやります」、さらには「赤鬼や青鬼のような米英」をやっつけるために日本兵が戦っている、と幼児に語りかけられていました。この時点で、鬼はもう曖昧な異界の怪物ではなく、具体的な敵国の記号です。桃太郎は、幼児に戦争語彙を飲み込ませるストローの役まで担わされてしまったわけです。 

映画も同じ流れを走ります。日本アニメーション映画史のデータベースによれば、『桃太郎の海鷲』は海軍省報道部企画のもと、一九四三年三月二十五日に公開され、略筋は真珠湾攻撃をモチーフにした鬼ヶ島軍港奇襲です。続く『桃太郎 海の神兵』は松竹の公式データベースで、一九四五年の長編アニメとして、桃太郎隊長のもと犬・猿・雉・熊らが落下傘部隊として鬼ヶ島へ向かう物語と説明されます。日本アニメーション映画クラシックスは、瀬尾光世が海軍省依頼の長篇大作を完成させた経緯を紹介しており、映像学の論文では、この二作が単なるプロパガンダ作品にとどまらず、日本アニメーション史の重要な系譜として、のちに手塚治虫にも強い衝撃を与えたことが示されています。つまり桃太郎は、戦意高揚の旗印であると同時に、戦後アニメの技法史にも影を落とす存在だったのです。 

ここで物語構造を見直すと、変化はかなりはっきりしています。昔話では、黍団子は旅の途中で供を得るための交換と約束の道具でした。ところが唱歌では「家来」になり、映画では隊長のもとに編成される軍事的ヒエラルキーへ変わります。鬼ヶ島も、異界の島から、爆撃・落下傘・訓練・航空兵力が描かれる戦場へ変わる。しかも小倉健太郎は、『海の神兵』で漫画の滑稽さとは相反する暴力描写や悲劇が導入され、非漫画的要素によって「漫画映画」の概念自体が拡張されたと論じています。桃太郎は、物語の主人公であるだけでなく、メディアの形式を押し広げる梃子にもなっていたのです。 

戦後の読み直しと学術の議論

戦後になると、桃太郎は急に気まずい親戚のようになります。琉球大学リポジトリ掲載の論文は、一九六〇年前後には「桃太郎」はほとんど取り上げられず、絵本らしい絵本はなかったとし、その理由を、桃太郎が戦前の代表的昔話でありながら、勧善懲悪的・軍国主義的色彩のためかえって語られなくなったからだと説明しています。ここは重要です。戦後すぐの桃太郎は「人気者」ではなく、知名度はあるのに、どう扱ってよいか困る物語だったのです。まるで、あまりに使われすぎて意味が磨耗したコインのようです。 

その沈黙を破った転機のひとつが、再話でした。福音館書店の『ももたろう』は、松居直・赤羽末吉による代表的絵本として紹介され、福音館自身も「桃太郎絵本の決定版」と位置づけています。さらに近年の読み比べ資料では、この絵本が太平洋戦争後の民主主義平和国家の桃太郎像を伝えたいという意識で、全国の伝承を踏まえて再話されたものであり、鬼に対して「宝はいらない、お姫さまをかえせ」と要求し、復讐の連鎖を断つ行動をとる、と説明されています。桃太郎の武勇は残るのに、戦果の回収ではなく被害者の救出へ軸が移る。これは大きな変化です。鬼退治は同じでも、勝利の倫理が違うのです。 

学術の側では、柳田國男の『桃太郎の誕生』が大きな地図を描きました。加原論文が引用する柳田の「もう本の株は枯れてゐる」という言い回しは、起源探しの難しさを示すだけでなく、昔話研究のやり方そのものを示しています。つまり、昔話は“誰が最初に作ったか”を当てる宝探しより、どの話型がどの地域にどう残り、どう変わるかを見る学問の対象だ、という姿勢です。その流れを受けて『日本昔話通観』のような大規模集成が作られ、桃太郎は一篇の名作文芸である前に、分布し、変形し、派生する民間文芸として読み直されるようになりました。 

そのうえで、近現代の批評は桃太郎をさらに裏返します。芥川龍之介の『桃太郎』は、一九二四年『サンデー毎日 夏期特別号』初出で、後の研究では「天才と圧制者」として桃太郎を読み直す作品として論じられています。つまり、英雄の側こそ暴力装置ではないか、という問いです。また山口大学の研究では、昭和初期のプロレタリア児童文学の影響のなかで、「階級の子」としての桃太郎が現れ、鬼が地主や搾取者の比喩として読み替えられる例があるとされます。さらに、現代の教育教材分析では、小学校外国語活動教材『Hi, Friends. 2』の桃太郎に男女の性別役割分業が明示的に見られ、しかも軍国主義を連想させると批判されています。こうして見ると、戦後以降の桃太郎研究は、「正義の物語」を礼賛するのでなく、誰が主役にされ、誰が鬼にされ、誰が家で働くことになっているのかを問い返す学問になっていったと言えます。 

もう一つ、見落としたくないのは、占領期をめぐる議論です。関連研究の紹介では、首藤美香子の論文が、戦前から占領期にかけての絵本桃太郎のキャラクター変質を通じて、検閲体制下で伝統文学をどう保存し、どう言い換えたかを分析したと要約されています。ここでは、桃太郎は単に「消えた」のではなく、残るために姿勢を変えたとも言えます。昔話は壊れやすいガラスではなく、曲げられてもなお形を保つ竹のようなところがある。そのしなり方を読むのが、戦後の桃太郎研究の醍醐味です。 

いまの桃太郎とこれから

現代の桃太郎は、もう本棚の中だけにはいません。岡山市の公式観光情報は、まっすぐに「桃太郎のまち岡山」を掲げ、街のあちこちにある桃太郎オブジェや、きびだんごの店々、そして岡山駅構内の岡山市ももたろう観光センターを案内しています。さらに公式モデルコースでは、吉備津彦神社・吉備津神社・矢喰宮・鬼ノ城などをめぐる「桃太郎伝説コース」まで用意されています。ここで桃太郎は、昔話の主人公であると同時に、都市の案内板をまとめるタイトルロゴの働きをしています。物語が地図になり、地図がまた物語を補強する、きれいな循環です。 

鉄道と祭りに目を向けると、その存在感はさらに濃くなります。JR西日本は吉備線の愛称を「桃太郎線」とし、観光PRの第一弾として桃太郎伝説をイメージしたラッピング列車と二カ国語の車内観光案内放送を始めたと発表しています。二〇二六年五月時点の時刻表でも、路線名は「桃太郎線(吉備線)」と表記されています。また、岡山の大型夏祭り「うらじゃ」は、公式サイトで、吉備津彦命と温羅の戦いを描く桃太郎伝説から生まれた祭りであり、二〇二六年も八月二十二日・二十三日に開催予定と案内しています。ここで面白いのは、桃太郎文化がいまや鬼の側の名で踊る祭りでもあることです。かつて滅ぼされる存在だった「うら」が、現在は地域文化の主役の一角を担う。この反転は、現代の桃太郎文化を理解するうえでとても大きいと思います。 

商品や教育でも、桃太郎は現役です。岡山の公式通販サイトには、桃太郎伝説由来の祭り「うらじゃ」と結びついたステッカーなど、桃太郎モチーフ商品が並びますし、岡山市の観光サイトはきびだんごを桃太郎の定番土産として前面に出しています。他方、文部科学省は現在も “Hi, friends!” 関連資料を公開しており、Lesson 7 では桃太郎が題材になっています。しかも、この教材についてはジェンダー研究が、性別役割分業の明示や軍国主義連想の問題を指摘しています。つまり現代の桃太郎は、「かわいい観光資源」と「批判の対象になる教育素材」を同時に生きる、非常に多面体な存在です。 

ここまでをまとめると、桃太郎の現在の文化的機能は、少なくとも三つあります。第一に、共有記憶のショートカットです。少し名前を出すだけで、桃・鬼・きびだんご・犬猿雉が即座に立ち上がる。第二に、地域ブランディングのエンジンです。観光、駅名、祭り、土産が一つの物語で束ねられる。第三に、批判的読み直しの教材です。桃太郎を通じて、戦争・ジェンダー・権力・排除の問題を考えられる。将来を推測するなら、桃太郎は今後ますます、単一の英雄譚としてではなく、鬼の側の語り、救出型の再話、多言語教育、デジタル・ポップカルチャーへの翻案を含む“複数形の昔話”として使われていくでしょう。これは断定ではなく推測ですが、鬼と共に踊るうらじゃ、英語教材の桃太郎、平和主義的な再話絵本という現在の並びを見れば、その方向はかなり自然に見えます。桃太郎はこれからも生き残るはずです。ただしそれは、昔のまま生き残るのではなく、語り直されることで生き残るはずです。そこに、この昔話のしぶとさと、少しこわいほどの柔らかさがあります。 

結びとしての総合像

最後に、桃太郎を一本の線ではなく、一枚の地層として見てみます。いちばん下には、桃の霊力、若返り、怪力、異界渡りといった古い民間信仰や説話的素材があります。その上に、江戸の赤本・黄表紙・豆本がのり、物語を子どもの読み物として拡散しました。さらに明治が教科書と唱歌で全国共通の顔を与え、二十世紀前半の国家がそれを忠誠と征伐の物語に流用しました。戦後は、その硬くなった顔をほぐすように、再話・民俗学・文学研究・ジェンダー批評・政治批評が次々入り、今日では観光・交通・祭り・土産・授業のなかで、桃太郎は再び日常へ戻っています。ただし今度の日常は、昔のように無邪気ではありません。私たちはもう、鬼が誰にされていたのか、家来という言葉が何を運んでいたのか、物語が国家にどう使われたのかを知ってしまったからです。 

だから、桃太郎が文化的に機能しているというのは、単に「有名で便利」だという意味ではありません。桃太郎は、日本社会が正義・共同体・外敵・家族・労働・教育をどう考えてきたか、その考え方の変化を丸ごと吸い込んで見せてくれる、かなり働き者の物語です。昔話でありながら、その実、ずっと時代の最前線に立たされてきた。桃太郎がいまも語られるのは、物語が古いからではなく、古いままではいられないほど、よく使われてきたからなのだと思います。そう考えると、桃太郎は「昔話」というより、時代ごとに衣装を着替え続ける舞台役者に近いのかもしれません。そして観客である私たちが変わるたびに、その役柄もまた変わるのです。 

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