桃太郎の「鬼ヶ島」は何を象徴しているのか――地図にない島に、時代は何を投影したか

桃太郎
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エグゼクティブ・サマリー

桃太郎の鬼ヶ島を「現実にはどこか」と探すより、「物語の中で何のために沖合に置かれているのか」と問うと、輪郭がかなり鮮明になる。結論から言えば、鬼ヶ島のもっとも基層的で説得力のある象徴は、「自分たちの世界の外側にある異界=他者の領域」である。そこには共同体が「こちら側には属さない」とみなす暴力、混乱、富、欲望、異民族、敵国などが置かれ、桃太郎は境界を越えてそれを制圧し、宝を持って帰る。鬼ヶ島は住所というより、共同体の不安や欲望を映す沖合のスクリーンなのである。日本の鬼研究でも、鬼は単なる一種類の怪物ではなく、人間社会の外部・異形・反秩序と複雑に結びつく存在として扱われてきた。

ただし、そのスクリーンに映る映画は時代ごとに違う。江戸期までの桃太郎には現在とは異なる誕生譚や筋立てが多数あり、口承にも「桃」ではなく箱が流れてくる型、怠け者型の主人公など地域差がある。私たちが「昔から一字一句こうだった」と思いがちな標準的桃太郎は、近代の出版・学校教育によって強く整形されたものである。

そして近代、とくに明治から昭和前期になると、鬼ヶ島にはかなりはっきり外国・敵国・植民地的フロンティアの色が塗られた。桃太郎は「国家の英雄」に変換され、学校教材や戦時文化のなかで、統率された家来を率いて外敵を征服するモデルとして利用された。Klaus Antoniは、昭和期の国家主義教育で桃太郎が果たした機能を明示的に論じており、Robert TierneyやNoriko Reiderも桃太郎・鬼・帝国/植民地という接続を分析している。

一方、心理学的には、ユングの「影(Shadow)」を使えば鬼ヶ島は「自我や共同体が自分のものとは認めたくない性質を投影する場所」と読める。通過儀礼論なら、家を出る→境界を越える→試練を受ける→帰還するという構造が、ファン・ヘネップの「分離―移行―再統合」ときれいに重なる。これは非常に示唆的だが、桃太郎の作者がユング心理学を先取りしていた、という話ではもちろんない。あくまで後世から当てる分析レンズである。

さらに重要なのは、「鬼ヶ島=悪の巣窟」という前提そのものが昔から疑われてきたことだ。福澤諭吉は1871年の『ひゞのをしへ』で、鬼に正当な罪がないなら宝を奪う桃太郎は盗人ではないか、と子ども向けの教訓のなかで痛烈に突いている。1924年の芥川龍之介『桃太郎』になると、鬼ヶ島は平和な楽土で、侵略者はむしろ桃太郎側になる。つまり鬼ヶ島は、「悪の象徴」であると同時に、誰を悪と呼ぶ権利があるのかを試す装置にもなった。

前提と、この問いをどう読み解くか

本稿では次の前提を置く。

  • 想定読者は、民俗学・文学研究を専門としない一般の日本語読者。
  • 分量は、長文ブログとしておおむね日本語で1,200〜2,000語相当を目安とする。
  • 「鬼ヶ島は現実の一地点ではない」という問いの前提は、特定の実在地を物語成立の唯一のモデルとして同定できないという意味に取る。岡山の鬼ノ城や香川の女木島など「鬼ヶ島」と結びつけられた土地は存在するが、それらを桃太郎説話の唯一の歴史的原点とみなす学術的合意があるわけではない。鬼ノ城自体は実在する古代山城であり、後世の地域伝承との結合と、昔話そのものの成立史とは区別する必要がある。

また、「象徴」と言うと何でも好きな意味を貼り付けられてしまう危険がある。雲を見て「犬だ」「いや大根だ」と言い始めるのと同じである。そこで、ここでは三つの基準を使う。複数の異本にも残る構造か、歴史的資料によってその読みが確認できるか、そして物語の変化を説明できるかである。この三条件を満たすほど「強い解釈」、現代の理論を当てれば面白いが歴史的証拠が乏しいものほど「補助的解釈」とみなす。

この区別は特に重要だ。たとえば「鬼ヶ島=外国」は近代にはきわめて強いが、江戸以前の全桃太郎にその意味を遡及させるのは無理がある。逆に「鬼ヶ島=異界・外部」は、鬼が外国人を意味しない時代にも成立するため、より深い層まで届く。この「どの時代まで説明できるか」が、結論を選ぶ重要な物差しになる。桃太郎研究そのものも、小池藤五郎の古文献研究、滑川道夫の近代的桃太郎像の変容研究、加原奈穂子による「昔話の主人公から国家の象徴へ」という研究など、固定した一つの桃太郎ではなく変化してきた桃太郎を問題にしている。

「昔から同じ桃太郎だった」という思い込みを外す――文学史と口承の世界

まず時計を巻き戻そう。

桃太郎説話の源流を正確に一点へ定めることは難しい。近世にはすでに複数の文芸化された桃太郎が存在し、現存する古い版本としては享保8年(1723)の赤本『もゝ太郎』がよく挙げられる。小池藤五郎の「古文献を基礎とした桃太郎説話の研究」や、山崎舞の「昔話『桃太郎』の変転」は、まさにこうした古文献・異本の比較を研究対象としている。つまり最初から「唯一の正本」が木の根元に埋まっていたわけではない。

もっと驚くのは誕生場面である。現在は「桃を割ると赤ん坊」が常識だが、江戸期の文芸化された桃太郎には、老夫婦が桃を食べて若返り、その結果として子をもうける「回春型」が多く見られる。後に「桃から直接生まれる」果生型が標準化していった。桃太郎の入口からして可動式なのである。

この違いは象徴解釈にも効く。回春型なら物語の前半は、不妊・老い・家の継承危機から、生命力の回復と後継者誕生へ向かう話になる。桃太郎は単なるスーパーベビーではなく、途切れかけた家の時間を再び動かす子だ。その子が家を離れ、外界で富を獲得して帰るなら、「家庭の再生→若者の自立→家への富の還流」という流れまで見えてくる。これは後の国家主義以前にも成り立つ読みである。誕生型が複数ある以上、桃の形だけを性象徴として固定してしまう精神分析には慎重であるべきだ、という反証にもなる。

さらに口承世界では、物語はいっそう柔らかい。東北・北陸方面には赤白、あるいは赤黒の箱が川を流れてくる型があり、中国・四国方面には桃太郎が「寝太郎」型の怠け者の性質を持つ伝承も採集されている。鬼退治の方法や宝物、成長の仕方も一定しない。民話とは、USBメモリのように完全コピーされるものではなく、語り手から語り手へ渡るたびに少しずつ形の変わる粘土細工なのである。

ここから最初の重要な推論ができる。鬼ヶ島に一つの固定した具体的意味が最初から埋め込まれていた可能性は低い。主人公の誕生から性格まで動く物語で、島だけが秘密の暗号として永遠不変だった、と考える方が不自然だからだ。

むしろ不変に近いのは、「こちら側の家・村」から離れ、「海の向こう/遠方」にいる異類へ到達し、対決し、何かを持ち帰るという空間構造である。したがって象徴を探すなら、島の緯度経度ではなく、「こちら」と「あちら」を分ける境界性を見るべきなのである。

鬼ヶ島という「意味の空き地」――異界、他者、秩序、富、災厄

では、その境界の向こう側には何が置かれるのか。

最も強い解釈は、異界・他者性である。

日本の説話に登場する鬼は、単純な「悪魔」の和訳ではない。山、大江山、羅生門、辺境、地獄など、日常の秩序から外れた場所に現れ、人間と非人間、文明と野生、中心と周縁をまたぐ存在として長い変遷を持つ。Noriko T. Reiderの鬼研究は、古代から現代まで鬼が宗教・文学・政治的アイデンティティと結びついて変容してきたことを扱う。また日本の妖怪・怪異研究でも、鬼や山姥を「他者」の問題から論じる系譜がある。

すると鬼ヶ島とは、「悪人町一丁目」ではなく、共同体が自分とは違うものを収納する外部フォルダと考えられる。こちらが人間ならあちらは鬼、こちらが秩序ならあちらは混沌、こちらが日常ならあちらは異界。この二項対立があるから、桃太郎の越境に意味が生まれる。

次に強いのは、社会的無秩序・共同体への脅威である。標準化された物語では鬼は人々を苦しめたり財物を奪ったりする存在として描かれ、桃太郎の征伐は秩序回復として正当化される。この型なら鬼ヶ島は、犯罪・暴力・略奪といった「秩序の外」を空間化した場所だ。近代の改稿で鬼の悪行が明示されるようになったこと自体、逆に「なぜ鬼を攻撃してよいのか」という正当化が後から補強される必要があったことを示している。

そして面白いのがである。鬼ヶ島には宝がある。これは小さな点に見えて、かなり大きい。鬼はただ恐ろしいだけではなく、こちら側にない財宝・打出の小槌・珍宝を所有している。つまり異界は危険であると同時に豊かなのである。この構図は、「外部には恐怖と資源が同居する」という人間社会の想像力によく合う。

ここから階級・所有の葛藤という読みも出てくる。ただしこれは基層的な意味としては証拠が弱く、近代批評として読む方が堅い。福澤諭吉は1871年の『ひゞのをしへ』で、「宝の主は鬼なのだから、理由なく取りに行けば桃太郎は盗人ではないか」と子どもたちに教えた。悪い鬼を懲らしめることと、その財産を奪うことは別問題だ、というのである。驚くほど現代的な「所有権チェック」である。

芥川龍之介はさらに踏み込み、1924年の『桃太郎』で、犬が黍団子を欲しがると桃太郎が値切り、芥川自身の語りで「持たぬもの」が「持ったもの」の意思に服従する経済関係として描く。鬼ヶ島征服後には宝物の献上だけでなく人質まで要求する。したがって、後世の批評的読みでは鬼ヶ島を資源を持つ周縁部、それを武力で収奪する中心との関係として読む余地が十分ある。

疫病・自然災害については、もっと慎重でなければならない。日本の歴史的表象では疫病や災厄が鬼・鬼神などの姿で可視化される例は確かに存在する。 しかし、そこからただちに「桃太郎の鬼ヶ島は疫病を象徴する」と結論する一次資料上の強い根拠は見当たらない。したがってこれは、「鬼一般の意味領域から導ける可能性」ではあっても、桃太郎研究における第一級の説明ではない。地震や感染症まで全部鬼ヶ島に詰め込むと、島が象徴の押し入れになってしまう。

要するにこの段階では、証拠の強さはおおむね、異界・他者 > 反秩序・脅威 > 富や欲望の外部 > 階級/災害/疾病の特殊解釈と考えるのが妥当である。

心の中にも鬼ヶ島はあるのか――ユング、フロイト、通過儀礼

ここから心理学の眼鏡をかけてみよう。ただし眼鏡をかけたからといって、江戸の語り手が心理分析家になるわけではない。この区別は大事である。

ユング心理学で最も相性がよいのは「影(Shadow)」だ。ユング派でいう影は、自我が自分の理想像に合わないため認めにくく、無意識へ押しやった側面と関係し、それが外部へ投影されることもある。

この枠組みなら、鬼ヶ島はかなり鮮やかに読める。「私たちは善良、あいつらは残酷」「こちらは文明、向こうは野蛮」と切り分けた瞬間、自分たちの攻撃性や貪欲さを鬼側だけに置くことができる。鬼ヶ島とは、自分の影を海の向こうへ宅配した場所というわけだ。

そして芥川の改作が、このユング的読解を偶然ながら劇的に可視化する。芥川の鬼ヶ島は椰子が生え、極楽鳥が鳴く平和な「楽土」で、鬼たちは家族生活を営んでいる。一方、桃太郎軍は子どもまで殺し、宝を奪い、人質を取る。怪物だと思っていた相手より、征伐する自分の方が怪物的だった、という鏡像反転である。

ただし、ここで「したがって昔話の本来の意味は心の闇だった」としてはいけない。これは現代的解釈として非常に生産的だが、成立史を説明する証拠ではない。ユング自身が桃太郎についてこの解釈を提示したわけでもない。

フロイト的な精神分析なら、桃からの誕生、老夫婦からの分離、攻撃的冒険、宝の獲得と帰還を、出生・親からの自立・欲望・攻撃衝動・願望充足などとして読むことができる。昔話を無意識的葛藤や願望の表現として扱う精神分析的研究の伝統そのものは存在する。

しかし桃太郎ではフロイト式の「固定された一つの象徴辞典」は特に危ない。先ほど見たように、「桃から赤ん坊」という場面自体が不変ではなく、老夫婦が桃を食べて若返って性交・出産へ至る回春型もあるからだ。 ある異本だけをもとに「桃=母胎、刀=これ、鬼=あれ」と一直線に解読すると、別の異本が入ってきた瞬間に心理学のジグソーパズルが床に落ちる。

むしろ心理・神話的枠組みとして最も安定しているのは、通過儀礼である。

ファン・ヘネップが整理し、ヴィクター・ターナーが発展させた通過儀礼論では、身分や人生段階の移行には「分離→境界的・移行的段階→再統合」という三段階が見られる。

桃太郎は驚くほどこれに合う。

家を出ることが「分離」。海を越え、動物という人間と非人間の中間的仲間を従え、鬼の住む異界で試練を受けるのが「移行」。宝と名誉を持って家へ帰るのが「再統合」である。

この読みでは鬼ヶ島は、単なる悪者の住所ではない。子どもが「家の子」から、外界で能力を証明する社会的主体へ変わるための試験会場である。高校の入試会場よりは物騒だが、構造は似ている。

「幼年期のイニシエーション」という解釈が比較的説得力を持つのは、鬼の具体的正体が変わっても、家から出て境界を越え、試練を経て帰る構造が残るからである。ただしこれも、特定の実際の成人式を直接記録した昔話だという意味ではなく、通過儀礼と同型の物語構造を持つというレベルで理解するのが安全だ。

国民国家が鬼ヶ島を発見したとき――明治、帝国、教育、家族とジェンダー

桃太郎の象徴史で最大の地殻変動は、近代国家の成立で起きる。

明治期、昔話は口頭で語られる流動的な伝承であるだけでなく、印刷物・児童文学・学校教材として大量の子どもが同じ形で読む物語になっていった。岩谷小波らによる近代的再話と教科書化は、今日「普通の桃太郎」と感じる型の定着に大きく関わった。加原奈穂子が論文タイトルそのものを「昔話の主人公から国家の象徴へ――『桃太郎』パラダイムの形成」としているのは、この変化を端的に示している。

ここで「鬼退治」は国家にとって非常に使いやすい物語になる。

桃太郎は旗を掲げるリーダー。犬・猿・雉は役割の異なる部下。黍団子を媒介に集団が編成され、命令系統が作られ、一致団結して外部の敵を倒す。そして凱旋する。

家の昔話が、少しハンドルを切るだけで小型の国家寓話になるのである。

Klaus Antoniは桃太郎が昭和前期のナショナリズムと学校教育のなかで果たした機能を研究し、学校読本を通じて国家の望む価値が児童へ伝えられたことを論じている。Noriko Reiderの鬼研究にも「Oni and Japanese Identity」と帝国軍・敵イメージを扱う章があり、Robert Tierneyは南洋・植民政策・桃太郎の接続を分析している。

この段階では、「鬼=外国の敵」「鬼ヶ島=海外の敵地/植民地的フロンティア」という読みは、もはや自由連想ではない。歴史的文脈を持った解釈である。ただし繰り返すが、これは桃太郎の永遠の本質ではなく、近代国家が古い物語を再配線した結果だ。

その再配線を、映画はほとんど目に見える配線図にした。国立映画アーカイブは、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』と、敗戦直前に公開された『桃太郎 海の神兵』を日本アニメーション史の戦時作品として位置づけている。後者では桃太郎型の指導者と動物たちの組織が軍隊化し、昔話の「鬼退治」が戦争イメージへ接続される。

つまり鬼ヶ島はこの時代、心理的な「闇」というより、非常に政治的な**「国境の外側」**になった。

教育との関係には、しかし最初から亀裂があった。

福澤諭吉は明治4年(1871)の子ども向け家訓『ひゞのをしへ』で、動物をむやみに苦しめるな、盗むな、欲張るな、と教えたうえで桃太郎を俎上に載せる。鬼が世の妨げなら懲らしめるのはよい。しかし鬼の所有する宝を欲のために持ち帰るなら「卑劣」ではないか、という趣旨である。

これは非常に重要だ。桃太郎は国家道徳の教材に利用できる一方、同じ物語を道徳的に精読すると、征伐の正当性そのものが怪しくなる。優等生だと思って答案を開いたら、裏面に倫理学の難問が印刷されていたのである。

ジェンダーと家族にも同様の二重性がある。古い回春型では、老夫婦の生殖能力の回復から男児誕生へ向かい、物語の出発点は家の継続危機である。標準型でも、祖母は川で洗濯し黍団子を作り、祖父は山へ柴刈り、息子である桃太郎が武装して公共的な外界へ出ていく。これは、近代以前からの家族像と、近代に強化された「家庭を支える女性/外で行動し戦う男性」という役割分担を重ねて読むことができる。

ただし後半は本文構造からの推論であり、「昔話が近代的ジェンダー規範を作る目的で成立した」という証明ではない。むしろ重要なのは、学校教材化されたとき、こうした役割配置が無数の児童に同一の物語として反復された点である。世界の昔話を対象とした近年の大規模研究でも、男性が権威・暴力・職業的行動、女性がケア・家庭的行動と結びつくステレオタイプが検出されているが、これは桃太郎固有の証拠ではなく比較上の補助線として見るべきだろう。

鬼の側から読むと島がひっくり返る――芥川、戦後、現代の再話

鬼ヶ島の面白さは、視点を180度回すだけで意味が反転することである。

その代表が芥川龍之介の1924年『桃太郎』だ。

芥川版では、鬼ヶ島は「絶海の孤島」だが、荒れ果てた悪魔の島ではない。椰子が生え、極楽鳥が鳴き、鬼たちは琴を弾き、機を織り、酒を造り、子どもを育てる「楽土」だ。そして鬼の祖母は孫に、人間こそ嘘つきで欲深く、仲間同士で殺し合う恐ろしい生物なのだと話す。

ここで「他者化」の方向が逆転する。

人間の昔話では「鬼は怖い」。

鬼の昔話では「人間は怖い」。

つまり「怪物」とは身体的特徴ではなく、語り手が境界の向こう側へ貼るラベルだったことが露呈する。

桃太郎軍が上陸すると、芥川は彼らに鬼の若者や子どもを殺させ、鬼の首領から財宝と人質を取り立てる。生き残った鬼たちはその後「鬼ヶ島の独立」を計画する。作品の初出は1924年であり、その語彙と構図は、征服・植民地支配・抵抗運動を読者に連想させるよう意図的に組み直されている。

芥川は別の文章『僻見』でも、中国の革命家・章太炎が「鬼ヶ島を征伐した桃太郎」を嫌悪すると語った逸話を紹介し、その直後に日本政府の植民政策へ話を接続している。桃太郎=正義という国民的常識が、すでに大正期には東アジアの帝国問題を考える比喩として批判的に機能していたことがわかる。

戦時下では逆にその比喩が国家側から動員され、桃太郎型の集団が軍事的英雄譚へ変換された。 つまり同じ物語が、「征服する国家の自己像」にも、「その征服を告発する風刺」にも使える。ここが桃太郎の恐ろしくも面白いところである。

現代ではさらに「鬼から見た桃太郎」が教育・広告・批評の定番モチーフになっている。「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」という有名な視点反転を出発点にした授業実践については、民俗学者の飯倉義之が2023年に批判的検討を行っている。 また国立青少年教育振興機構系の教育プログラムにも、鬼側の視点から桃太郎の物語を書き直す活動が見られる。

これは戦後的・現代的な倫理教育の方向転換を象徴している。かつて問いが「桃太郎のように勇敢になれるか」だったとすれば、現代には「そもそも誰が鬼を鬼と決めたのか」という問いが追加された。

もっとも、ここにも落とし穴がある。「鬼にも家族がいるから桃太郎は絶対悪」と単純に裏返せば、昔の「桃太郎絶対善」と鏡写しになってしまう。飯倉の論考が現代の「鬼視点」授業自体を検討対象としていることは重要である。

昔話を批判的に読むことと、現代の価値観で昔話に判決を言い渡すことは別だ。

結論――鬼ヶ島は「悪の場所」ではなく、「外部をつくる場所」である

ここまでの証拠を強い順に並べ直すと、答えが見えてくる。

最も説得力があるのは、鬼ヶ島=「異界・他者の領域」説である。

理由は単純で、この読みだけが、口承の地域差、江戸期の異本、近代教科書、帝国主義的利用、芥川の反転版までをまとめて説明できるからだ。鬼の具体的な悪行が変わっても、桃太郎の誕生法が変わっても、「こちら側」から境界を越えて「あちら側」へ行くという配置は非常に強く残る。

したがって鬼ヶ島とは、共同体が自分ではないものを外部化するための想像上の領域と考えるのが最も頑健である。

その次に有力なのが、反秩序・脅威を封じ込める場所という意味だ。鬼を倒すことで共同体の安全が回復し、宝が帰ってくる。この意味では鬼ヶ島は、秩序の外側を可視化した舞台装置である。

第三に、近代という時代を限定すれば、外国・敵国・植民地的フロンティアという解釈は非常に強い。学校教育、ナショナリズム、戦時アニメ、帝国批判文学が互いに証拠を補強するからである。これは「昔話の原義」とするには狭すぎるが、「近代日本が鬼ヶ島に何を見たか」という問いなら一級の回答になる。

第四に、成長のための境界空間という通過儀礼的解釈も強い。家を離れ、日常世界から隔てられた場所で試練に遭い、成果を持って帰還する構造が、分離―移行―再統合のモデルによく対応するからだ。 ただしこれは成立史の証拠というより、物語構造を説明する比較神話・人類学的モデルである。

第五に、内面の「影」として読むユング的解釈は、とくに芥川以後の批評には非常に有効だ。敵に投影した残酷さが実は自分の側にもある、という仕組みを説明できる。 ただしこれも歴史的起源の説明ではない。

階級闘争、疫病、自然災害については、部分的・二次的解釈としては成立するが、「鬼ヶ島の本当の意味」とするには史料上の裏づけが弱い。とりわけ鬼一般が疫病や災厄を表象した例と、桃太郎の鬼ヶ島そのものが疫病を意味することは区別すべきである。

そして最大の反論も忘れてはいけない。

「昔話には、そんな深い象徴など最初からなかったのでは?」

その可能性は十分ある。昔話は論文ではないし、語り手が「本日は他者性の構築について一席」と考えて語ったわけでもない。異本が多いことこそ、単一の隠された意味を想定することへの最大の警告である。

だから最終的な答えは「鬼ヶ島=○○」という一対一の暗号解読ではない。

より正確には、

鬼ヶ島とは、時代ごとに社会が「われわれの外側」に置きたいものを受け入れる、可変式の象徴空間である。

江戸の人には不思議な宝を持つ異界。

近代国家には征服すべき敵地。

戦時体制には外敵の島。

芥川には帝国主義を映し返す植民地。

心理学的読者には心の影。

成長物語として読む子どもには、家を出た先にある試練の世界。

そして現代の教室では、「鬼とは誰のことなのか」を問い直す場所。

鬼ヶ島は地図にないからこそ、これほど長生きできたのである。実在する島なら観光案内で話が終わってしまう。しかし想像の島なら、社会が変わるたびに海岸線を書き換えられる。

ある意味、鬼ヶ島は鬼の住む場所というより、私たちが「鬼」をつくる場所なのだ。

さらに読むなら、日本語では柳田國男『桃太郎の誕生』、小池藤五郎「古文献を基礎とした桃太郎説話の研究(上)(下)」、滑川道夫『桃太郎像の変容』、鳥越信『桃太郎の運命』、加原奈穂子「昔話の主人公から国家の象徴へ――『桃太郎』パラダイムの形成」、山崎舞「昔話『桃太郎』の変転――『再板桃太郎昔語』の諸問題を中心に」が、成立・異本・近代化を追ううえで有用である。山崎論文は2018年『玉藻』第52号掲載の原著論文として確認でき、加原、小池、滑川らは桃太郎研究の主要文献として参照されている。

英語文献では、Klaus Antoni, “Momotaro (The Peach Boy) and the Spirit of Japan: Concerning the Function of a Fairy Tale in Japanese Nationalism”、Noriko T. Reider, Japanese Demon Lore: Oni from Ancient Times to the Present、Robert Tierney, Tropics of Savagery: The Culture of Japanese Empire in Comparative Frame、そして戦時日本の人種化・敵イメージをより広く考えるならJohn W. Dower, War Without Mercy: Race and Power in the Pacific Warが重要である。Antoniは桃太郎と国家主義教育、Reiderは鬼と日本的アイデンティティ、Tierneyは桃太郎と南洋・植民地政策という、本稿の核心をそれぞれ別角度から照らしている。

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