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エグゼクティブサマリー
結論から言うと、桃太郎における「宝を奪い返す」行為は、無条件に拍手喝采できる単純な善ではないが、一定の条件がそろうなら道徳的にかなり強く擁護できる、というのがいちばん無理のない評価です。条件とは、ざっくり言えば、鬼が現に人々を害し、財や人身を奪っており、桃太郎の行為がその被害の停止と回復に向けられ、しかも必要最小限で、単なる私腹肥やしに堕ちていないことです。逆に、鬼ヶ島の宝が「もともと鬼の所有物」かもしれない、あるいは桃太郎が最初から「宝取り」を主目的にしていたと読む版では、道徳評価は一気に曇ります。正義のマントは、案外クリーニング表示が細かいのです。
この結論に至る道筋は、次の順でたどると見通しがよくなります。まず、本文を比べると、桃太郎の目的は版によってかなり違います。江戸・明治初期の系統には、「宝物奪取」や「宝を取りに行く」と前面に出るものがあり、そこでは行為は回復というより「武勇を伴う獲得」に近い顔をしています。ところが、楠山正雄や英訳の一部では、鬼は「悪事を働き、人をさらい、国を脅かす存在」とされ、宝も「盗まれたもの」「鬼が差し出した賠償」と読めるようになっています。つまり、同じ桃でも、切ってみると中身は一枚岩ではありません。
倫理学のレンズを重ねると、景色はさらに面白くなります。功利主義なら、鬼の加害を止め被害者を救い社会の恐怖を下げるなら高評価しやすい。カント的義務論なら、他者を単なる手段として扱わず、報復が規則化可能か、降伏後の扱いが人格尊重にかなうかが焦点になります。徳倫理では、桃太郎の勇気は美徳でも、節度を欠けばただの武勇伝になります。儒教や日本的な義理・恩の観点からは、老夫婦への恩返しや共同体防衛は支持されやすい一方、勝者が敗者を踏み台にしすぎると「義」は痩せていきます。つまり、桃太郎の正しさは、拳の強さより動機・節度・配分で決まる、というわけです。
現代法の感覚で見ると、さらにピリッとします。日本法は原則として自力救済を嫌うので、権利侵害があっても、事後的に実力で取り返すことは例外的な緊急時しか許されません。刑法上は、急迫不正の侵害に対する正当防衛や現在の危難を避ける緊急避難は認められますが、侵害が終わった後の「報復」や「戦利品回収」は別の話です。だから現代の法感覚だと、桃太郎の鬼退治は「人質救出・継続被害阻止」なら比較的正当化しやすいが、「裁判抜きで島ごと制圧して宝を持ち帰る」はかなり危うい。昔話の世界では喝采でも、法廷では眉間にしわが寄る場面です。
いちばん大事なのは、桃太郎が**「悪を懲らして財を回復した英雄」なのか、「異界へ遠征して富を持ち帰った征服者」**なのかが、固定された答えではないことです。江戸から明治、戦前、戦後、そして現在まで、桃太郎像は教育・国家・地域・多様性教育の文脈で何度も塗り替えられてきました。だからこの問いへの答えは、「桃太郎は正しいか」だけでなく、「私たちは、何を正義と見たいのか」を映す鏡でもあります。鏡の前では、鬼の角より自分の前提のほうが、案外よく目立ちます。
まず本文を比べる
ここでは結論を急がず、まずテキストを机の上に並べます。道徳判断はしばしば、本文を読む前から走り出したがるのですが、それは桃太郎にきびだんごを渡す前に「忠誠心があるはず」と決めつけるのに似ています。順番は、江戸系の古い形、明治教科書、近代的な標準版、英訳版、そして逆光を当てる芥川版です。これでだいたい、物語の骨格と、その骨についている時代の肉づきが見えます。
江戸後期の豆本『桃太郎宝蔵入』を紹介する国立国会図書館の解説では、桃太郎は十六歳になると「鬼ヶ島に行って宝を取ってくる」と告げ、鬼を破り、鬼は宝を差し出して命乞いし、桃太郎は宝を持ち帰ったと要約されています。さらに、草双紙研究でも、現存最古級の赤本『もゝ太郎』(1723刊記)など初期形態の特徴として、桃太郎の鬼ヶ島行きの目的が「宝物奪取」であることが明言されています(舩戸 1998)。ここでは「被害者への返還」より、「異界攻略の成果として宝を得る」色が濃い。道徳評価でいえば、最初の皿からすでに味つけが濃いのです。
これに対し、明治二十年の『尋常小学校読本』に採られた桃太郎は、本文上、桃太郎が**「鬼がしまへ、たから物を取りに行きたい」と言って出発します。ここでも目的文はなお「宝取り」です。他方で、滑川道夫の研究を引く近年の論文は、この部分を「民話的な面影」**と呼び、のちの教化的・国家的桃太郎像へ向かう以前の、やや俗っぽい動機の残存と読んでいます。また同論文は、明治三十三年の修身書で桃太郎が「義勇孝行の徳」を養う教材とされたことを紹介しており、同じ桃太郎が教育制度のなかで次第に「宝取り」から「徳育の英雄」へ再編集されていったことがわかります(滑川 1981参照)。
標準的な現代読者に最も近いのは、楠山正雄の再話系統でしょう。ここでは鬼の大将は降参し、「命だけはお助け下さい。その代わりに宝物をのこらずさし上げます」と言います。その後、かくれみの、かくれ笠、打出の小槌、如意宝珠、珊瑚や瑇瑁や瑠璃などの宝が車に積まれ、桃太郎はそれを持ち帰ります。しかし同じテキストは、帰還場面でその宝を「ぶんどりの宝物」とも呼んでいます(楠山 1925/底本1983)。この一語が実に曲者です。「賠償」と読めば正当化しやすいが、「分捕り」と読めば戦利品めきます。本文の中に、道徳の揺れがもう埋め込まれているわけです。
英訳を見ると、物語の道徳的フレーミングが一段とはっきりします。D. Thomson の “Momotaro, or Little Peachling” では、桃太郎は“take their riches” を目的に鬼ヶ島へ向かい、鬼の首領は降伏して“surrender all his riches” と述べます(Thomson 1885系)。これは動機としてはまだ「富の獲得」に近い。一方、Yei Theodora Ozaki の版では、鬼は“robber devils” とされ、桃太郎は囚われ人を解放し、鬼に奪われた宝を集め、国全体が「盗賊鬼から解放された」と喜ぶ構図になります(Ozaki 1908)。同じ英語圏向けでも、Thomson は「征服と富」、Ozaki は「解放と回復」に重心が移る。翻訳は言葉の着替えであると同時に、道徳の衣装直しでもあります。
そして、ここに芥川龍之介の「桃太郎」(1924)を差し込むと、机の上の地図が急に立体になります。芥川版では、猿は宝物の分け前に釣られて従い、桃太郎は降伏した鬼の酋長に宝の全献上だけでなく子供を人質として差し出せと命じます。しかも鬼ヶ島は、「昨日のように、極楽鳥の囀る楽土ではない」と描かれます。ここでは桃太郎は被害回復の英雄というより、戦勝者の論理をまとう支配者です(芥川 1924)。このパロディは、桃太郎の「正義」が実は本文固有のものではなく、語りの角度でいくらでもひっくり返ることを、見事に暴いています。おとぎ話の畳を一枚めくると、政治と権力の床板がのぞくのです。
ここまでを中間整理すると、本文証拠だけでも少なくとも三つの読みが並びます。第一に、宝物奪取型。第二に、悪鬼からの賠償・回復型。第三に、征服と隷属化を含む支配型です。したがって、「桃太郎は宝を奪い返したのだから善だ」と即断するのは、桃を見てメロンだと言い張るくらい雑です。まずは包丁を入れ、中身を見ないといけません。
ものさしを替えると評価はどう動くか
ここからは、本文の上に倫理学のものさしを順番に当てます。大事なのは、「どの理論が勝つか」を競馬のように決めることではありません。むしろ、どの理論がどの部分に反応するかを見ることです。功利主義は結果に、義務論は手続と人格尊重に、徳倫理は人格と節度に敏感です。レンズを替えるたびに、同じ桃太郎が別人のように見えてくるのが、この話のおもしろさでもあります。
功利主義は、行為の道徳性を主として帰結で測ります(Driver/SEP 2009)。もし鬼が人をさらい、財を奪い、共同体に持続的な恐怖を与えていたなら、その加害を止め、被害者を解放し、財を回復し、将来の被害を防ぐ桃太郎の行為は、かなり高く評価されるでしょう。Ozaki 版のように囚われ人の解放まで描かれるなら、なおさらです。けれども、同じ功利主義は、降伏後に不必要な残虐行為を重ねたり、宝を私的に独占したりすれば、総幸福を損なうとして減点します。つまり功利主義にとって重要なのは、「鬼を倒したか」ではなく、どれだけ害を減らし、どれだけ回復をもたらしたかです。鬼退治の太鼓より、被害と利益の家計簿を見る理論だと言えます。
カントを中心とする義務論では、話は少し厳格になります。カント倫理学は、人を単なる手段としてではなく、目的それ自体として扱うことを重視します(Johnson/SEP 2004; Kerstein/SEP 2019)。この観点からは、鬼が人をさらい奴隷化していたなら、まず鬼の側が人格尊重に反している。他方、桃太郎の側も、降伏後の鬼を見せしめとして扱ったり、人質を要求したりすれば、やはり人格を手段化します。芥川版がまさにそこを突いています。さらに、桃太郎の行為原理を普遍化できるかという問いも出てきます。「悪者だと思った相手の財を実力で取り上げてよい」という原理は、普遍化するとかなり危険です。ですから義務論は、鬼退治そのものよりも、正当な理由・比例性・降伏後の扱いにきわめてうるさい。正義の剣に、取扱説明書をつける理論です。
徳倫理では、問いが「何をしたか」から「どんな人であったか」へ少しずれます。徳倫理は、善い行為を、徳ある人のふるまいとして捉えます(Hursthouse/SEP 2003)。桃太郎の勇気、仲間への分配、老夫婦への配慮は美徳として映りうる。他方で、宝を得ることに執着し、勝利に酔い、敵の降伏後まで貪欲にふるまうなら、それは勇気というより蛮勇、正義というより貪欲です。アリストテレス的に言えば、美徳は中庸にあり、勇気は無謀と臆病のあいだにあります。桃太郎がただ「強い」のでは足りず、強さに節度があるかが問われるのです。楠山版の「ぶんどり」という語は、この徳倫理的警戒を自然に呼び込みます。
儒教的な徳倫理の方面から見ると、焦点はさらに関係性へ移ります。中国倫理の解説が言うように、儒教倫理はしばしば徳倫理として理解され、特に仁や関係の中での自己形成を重視します(Wong/SEP 2008)。この観点では、老夫婦に育てられた桃太郎が、その恩に報い、共同体を守ろうとするのは肯定されやすい。日本文化論における恩と義理も、受けた恩に対して応答責任が生じるという枠組みで理解されてきました(福井 2012; 佐藤 2003)。だから、桃太郎の出発は「私の冒険」ではなく、恩に報い、社会的責務を果たす旅として読まれやすいのです。けれども同時に、義理は「共同体の正しさ」に奉仕するあまり、外部者の声を聞き損ねる危険もあります。鬼が完全に「顔のない悪」とされるとき、義理は正義の背骨にも、排除の金棒にもなり得ます。
応報的正義と修復的正義の対比も有効です。応報的正義は、罪に見合う責任と比例性を重視します(Walen/SEP 2014)。その意味で、鬼が継続的な加害者なら、制裁自体には一定の正当性がある。しかし、修復的正義は、被害者の参加、被害回復、加害者の責任引受けを重視します(Radzik/SEP 2015)。楠山版で鬼が降伏し、命乞いと引き換えに宝を差し出す場面には、かすかながら修復的契機があるとも読めます。とはいえ、実際には対話というより力関係の圧倒が先行しており、現代の修復的正義にあるような被害者参加型の合意形成とはかなり違います。しかも Daly が指摘するように、修復と応報を単純な二項対立で分けるのは粗い(Daly 2002/2006)。桃太郎の宝の扱いも、罰・賠償・戦利品の三つが混ざったグレーゾーンにあります。白黒つけるつもりが、筆を洗う水が先に黒くなるタイプの論点です。
ここで一つ、思考実験を置いてみます。もし鬼が本当に盗賊で、宝蔵に村人の財物やさらわれた人々が閉じ込められていたなら、桃太郎の持ち帰りはかなり強く正当化されます。逆に、鬼ヶ島の宝が鬼の島の自然資源や固有の財で、人間側が「鬼だから悪い」とみなして接収しただけなら、評価は反転します。さらに、鬼の横暴を止めるという目的は同じでも、討伐・拿捕・交渉・返還要求のどれが選べるかで評価は変わる。つまり、この行為の核心は「宝そのもの」より、所有の由来・害の継続性・代替手段の有無にあります。宝箱そのものは同じでも、ラベルが違えば道徳評価は別物です。
法のレンズをかける
ここで、道徳と法をいったん別の棚に置きます。両者はよく似た顔をして隣に座っていますが、双子ではありません。道徳が「どうあるべきか」を問うのに対し、法は「どの手続で、どこまで許すか」を問う。桃太郎の所業は、この違いを学ぶ教材としてむしろ秀逸です。昔話としては勧善懲悪でも、現代法では「ちょっと待った」がいくつもかかるからです。
まず、日本法は一般に自力救済を原則禁止します。最高裁の基準を整理した法学論文によれば、私力の行使は原則として法の禁止するところであり、法的手続では現状維持が不可能または著しく困難な緊急やむを得ない特別の事情があるときにのみ、必要限度で例外的に許されうるとされます(最判1965・12・7を引用する和田 2016)。また、刑事法学の論文でも、自救行為は「法律上の手続によらないで自力によって権利を救済・実現する行為」とされ、法治国家では原則禁止だが、国家救済が迅速に期待できない場合の難問が論じられています(南 2008)。要するに現代日本法は、「正しい権利を持っているかもしれない」ことと、「自分の腕力で回収してよい」ことを、きっぱり分けます。
そのうえで、民法は奪われた占有について占有回収の訴えを認めていますし(民法200条)、債務者が任意に履行しないときは、裁判所に履行の強制を請求できると定めています(民法414条)。つまり、財や権利を取り戻すルートは用意されているが、基本は訴えと執行であって、武装した自前遠征隊ではありません。鬼ヶ島に強襲上陸して金銀財宝を車で引いて帰るのは、法的にはだいぶ野生味が強い。現代社会は、正義をいったん裁判所の窓口に並ばせる仕組みで動いています。
ただし、桃太郎の行為のすべてが法的に否定されるわけでもありません。刑法36条は、急迫不正の侵害に対して自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しないとし、37条は、現在の危難を避けるための必要行為を一定範囲で罰しないとしています。ですから、もし鬼がその場で人命や身体に対する加害を続けていたなら、桃太郎の武力行使の一部は正当防衛や緊急避難に近い構図になりえます。しかし、降伏後まで広く宝を接収し、島の資源まで持ち去るなら、それは防衛や避難からはみ出しやすい。現代法は「危険停止」のための力は認めるが、「勝ったから取る」は簡単には認めません。法はヒーロー映画に拍手する前に、まず条文を読みます。
この区別は、道徳判断にも戻ってきます。法的に違法でも道徳的に擁護できる場合はありえます。たとえば、国家が機能せず、村人が今まさに襲われ、何もしなければ多数の被害が続くような状況では、道徳的には桃太郎的介入が支持されるかもしれません。反対に、法的には手続が整っていても道徳的に冷たい場合もあります。だから「法ではダメだから道徳でもダメ」と短絡するのは早計です。ただ、法が自力救済を強く抑制すること自体には、力の強い者が正義を独占しないための深い理由があります。桃太郎の活躍を現代社会へ輸入するなら、刀や旗ではなく、制度と説明責任を一緒に持ち込まないと危ない、ということです。
物語が生まれた時代の空気
さて、ここで時代の空気を吸い込みます。昔話は真空パックではありません。桃太郎は、江戸の出版文化、明治の教育制度、戦時下の国家動員、戦後の児童文化、そして現代の多様性教育まで、いろんな鍋で煮直されてきました。だから「宝を奪い返す」行為の道徳評価も、本文だけでなく、なぜそのように語られたのかを見ないと片肺飛行になります。
江戸期には、口承の昔話が赤本や豆本として出版され、子ども向け絵本文化の中で広く流通しました。国立国会図書館の解説によれば、江戸時代には木版印刷の普及と寺子屋の発達を背景に、子どもを読者とする絵本が成立し、従来口承だった昔話が大量に読まれるようになりました。その中の桃太郎は、回春型誕生や宝取り動機を備えた形で描かれています。ここでの宝は、近代法的な「権利回復」というより、異界から福を持ち帰る民話的な豊穣のしるしに近い。言い換えれば、江戸の桃太郎は裁判官というより、福を引き寄せる冒険者です。
明治になると、事情が変わります。巌谷小波の『日本昔噺』は、江戸期の御伽草子や口承伝承を、「子ども」を意識した近代的童話へと組み替えました。さらに桃太郎は1887年に教科書へ採用され、その後、全国的な「通常の桃太郎」の概念が形成されていったと指摘されています。加原奈穂子は、桃太郎が近代学校教育のなかで、昔話の主人公から国家の象徴へ変わっていく過程を論じています。つまり明治以降、桃太郎はただの昔話の子ではなく、望ましい国民像を背負わされた優等生になっていく。宝の回収も、単なる収穫ではなく、秩序回復と教訓の舞台装置として磨き上げられたわけです。
鬼の意味も、思ったより単純ではありません。中尾らが紹介する研究史には、鬼を「宝物を盗んだ悪人」とみる通俗理解だけでなく、鬼の住む場所そのものが金・銀・鉄・珠玉の眠る鉱山地帯であり、鬼は鉱山技術を持つ集団ではないかという見方があります。また Reider は、鬼が日本文化においてたしかに恐ろしい存在として描かれつつも、歴史的には繁栄の担い手、美しい存在、かわいらしい存在にまで広がる曖昧さを持つと論じています。鬼が単なる「悪の顔写真」ではなく、境界の外部者、異民族、技術者、あるいは体制外の者のメタファーを帯びうるなら、桃太郎の宝の扱いは「盗品奪還」だけでは済まなくなります。正義の地図に、植民地論や中心/周縁論の等高線が浮かんでくるのです。
そして戦時下には、桃太郎は文字どおり国策の風に乗せられます。研究は、戦時期の「桃太郎」表象が現実の戦争と結びついていくこと、また映画『桃太郎 海の神兵』が日本の勝利へ物語を収束させるプロパガンダであると同時に、戦争の矛盾をもにじませる両義性を持つ可能性を指摘しています。松竹の作品紹介も、この映画が「八紘一宇」と「アジア解放」を主題とした国策アニメであったことを明示しています。ここで鬼退治は、もはや村の治安回復ではなく、国家的遠征の寓話へ拡大されます。宝の回収が「正義の回復」に見えやすいのは、その語りがすでに政治的に演出されているからでもあるのです。
よその物語と並べてみる
桃太郎の判断に迷ったら、よその物語と並べてみるのが有効です。比較は、道徳哲学にとっての換気扇のようなものです。部屋の中だけで考えていると、正義のにおいも、ただの慣れかもしれません。ここでは、ロビン・フッド、オデュッセウス、そして現代の文化財返還やポップカルチャーを横目で見ます。
ロビン・フッド伝説は、権力者から奪って貧者へ与える反権力的正義の象徴です。ブリタニカによれば、ロビン・フッドは権威の代表を襲い、その利得を貧しい者に分け与える反逆的英雄として描かれてきました。ここでは所有権よりも分配的正義が前景化します。桃太郎との違いは、ロビン・フッドがしばしば不正な制度そのものに背くのに対し、桃太郎はむしろ共同体秩序の回復者として読まれやすい点です。けれども、「違法に見える回収行為が、より深い正義を担うのではないか」という問いは共通しています。桃太郎の宝が村へ返り、皆に分配されるなら、彼は少しロビン・フッドに近づきます。逆に、宝が英雄個人の栄達の階段になるなら、離れていきます。
ホメロスの『オデュッセイア』では、オデュッセウス不在のあいだに求婚者たちが家に居座り、家産を食い潰します。ブリタニカや解説資料が示すように、彼は帰還後、家を占拠し財を浪費した求婚者たちを殺害し、家の秩序を取り戻します。ここでは「我が家の回復」という正統性が強い一方、報復の過剰さも長く議論されてきました。桃太郎との共通点は、侵奪された秩序の回復という構図。相違点は、オデュッセウスが自分の家へ戻るのに対し、桃太郎は他界へ遠征することです。この違いは大きい。家の奪還と島の征伐は、道徳的には同じ鍋で煮られません。
現代の近い類比としては、略奪文化財の返還とヴィジランティズムのあいだに桃太郎はぶら下がっています。文化財返還を論じる法学研究は、強制的移転や植民地主義に伴う略奪物を返すことの正当性を認めつつも、その実現には結局法的手続が大きな役割を果たすと述べます。他方、映画研究は『インディ・ジョーンズ』『モニュメンツ・メン』『黄金のアデーレ』などが、文化遺産の回復をめぐる法と倫理をそれぞれ異なって描いていると指摘しています。桃太郎は、この二つの間にいます。被害回復の正しさを感じさせつつ、手続抜きの英雄的回収に寄りすぎる。現代人がモヤっとするのは、その中間地点に立たされるからでしょう。
読み手によって正義は変わる
ここまで来ると、桃太郎の宝の問題は「本文の意味」だけでなく、「誰がどう読むか」の問題でもあると見えてきます。子ども、親、教師、研究者では、同じ場面の見え方が違う。正義は固定照明ではなく、観客席ごとに角度の違うスポットライトです。
子ども向けの受容では、まず「悪い鬼をこらしめて、宝を取り戻した」という明快さが働きます。教育研究は、伝承物語が安心感、言葉の獲得、論理的思考、人生の知恵や教訓などを子どもに与える価値を持つと整理しています。だから幼い読者にとって、桃太郎の宝は細かな所有権紛争より、「悪さを止める」「みんなを助ける」「約束した仲間と帰る」というかたちで理解されやすい。心理的には、宝そのものがモラルの報酬であり、物語の拍手装置でもあるわけです。
しかし、年齢が上がると、同じ場面は急にざらつきます。教材研究は、桃太郎の教材化過程に年齢階梯や公教育のまなざしが刻まれていることを指摘していますし、近年の道徳実践では、鬼の立場、フェイクニュース、思い込み、相互理解と寛容を考える題材として桃太郎が再利用されています。博報堂の「みんなで考える桃太郎」プロジェクトが、桃太郎を通じて無意識の思い込みに気づくワークショップを行ったのもその流れです。つまり現代の大人は、桃太郎を「答えを教える話」より、問いを発火させる話として読み始めている。昔話のかまどが、だんだんディスカッションテーブルに化けてきたわけです。
研究者の受容はさらに一段ひねりがあります。加原や須藤らが示すように、桃太郎は近代の理想児童像、戦時の国家象徴、戦後の低年齢化・かわいい化、そして現代の再話戦略の中で変容してきました。戦後以降の反省的な読みでは、「鬼を倒して宝を持ち帰る」こと自体が正義の証拠ではなく、どの立場の視点が語られ、どの立場が消されているかが問われます。芥川のパロディが今なお効くのは、その問いを文学的に先取りしていたからです。大人の読者や研究者にとって、桃太郎の宝は、ただのトロフィーではなく、語りがつくる正義の偏りを測る試薬になります。
結論と読者への宿題
ここまでの分析を、一度きれいにたたみます。桃太郎において宝を奪い返す行為は、道徳的に「条件付きで正当化される」が、「つねに正しい」とは言えない。これが最終結論です。条件付き、というのが肝です。おいしい結論ほど一口で飲み込みたくなるものですが、この話はどうしても二、三回は噛んだほうがいい。
正当化できる場合を言い直すと、こうです。鬼が現に他者の生命・自由・財産を侵害し、桃太郎の介入がその侵害を止め、被害者を救い、奪われた財を回復し、しかも必要最小限で終わるなら、功利主義・一定の義務論・徳倫理・義理/恩の観点の多くが、桃太郎を支持しやすいでしょう。ここでの宝は、「勝者のボーナス」ではなく回復のしるしです。けれども、鬼ヶ島の宝の出自が曖昧で、桃太郎が最初から宝目当てで、降伏後に剰余の収奪や人質要求まで行うなら、行為は徴税でも返還でもなく、征服と略奪に近づきます。そのとき桃太郎は、英雄よりも、うまく物語った側の強者になります。
だから、現代の倫理教育や civic discourse に引きつけて言えば、桃太郎から学ぶべきなのは「悪を倒せばよい」ではありません。むしろ、誰が被害者なのか、何が本当に奪われたのか、回復の方法は比例的か、相手の顔を消していないか、勝利後にどこで手を止めるかを問うことです。被害回復の必要性と、自力救済の危険性を同時に考える。共同体への責任と、外部者への想像力を同時に鍛える。桃太郎は、その意味で、道徳の完成答案より、議論のよく育つ土壌です。教育研究や現代授業実践が桃太郎を多角的読解の材料として使うのも、そのためでしょう。
最後に、読者への宿題をひとつだけ残します。もしあなたが桃太郎の裁判員だったら、こう問い直してみてください。「桃太郎は何を取り返したのか。財物か、安全か、面子か、それとも物語る権利そのものか。」 この問いへの答えで、あなたの道徳観はかなり見えます。鬼ヶ島は遠い海の向こうにあるようで、実は私たちの頭の中のすぐ隣にあります。そこで誰を鬼と呼び、どの宝を「返還」と呼ぶのか。その決め方こそが、桃太郎の本当の試験問題なのだと思います。

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