きび団子は贈り物か、給料か――『桃太郎』の仲間づくりを読む

桃太郎
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エグゼクティブサマリー

きび団子は、手のひらに収まる小さな食べ物なのに、『桃太郎』の中ではほとんど「携帯できる政治制度」のように働いている。老夫婦から桃太郎へ渡されるとき、それは旅の安全を願う弁当である。ところが桃太郎から犬・猿・雉へ渡される瞬間、同じ団子が、贈り物、報酬、兵糧、契約の証し、忠誠の印へと姿を変える。この用途の変化こそ、物語を考える入口になる。楠山正雄版では動物の側が「一つ下さい、お供しましょう」と申し出るため、単純な強制とは言いにくい。一方、団子を渡した桃太郎は彼らを「家来」と呼び、命令権と戦果の管理権を握る。したがって、これは完全な支配でも、完全に対等な友情でもなく、自発性を含みながら資源格差に支えられた条件付き協力と読むのが妥当である。

版による違いは大きい。国際交流基金の現代的な再話は、「鬼退治に一緒に来るならあげましょう」と交換条件を明示しつつ、犬たちを「家来」ではなく「仲間」と呼び、一行がきび団子を食べながら旅を続ける。ここでは個別の雇用に近かった場面が、共食するチームの結成へと軟化している。対照的に芥川龍之介版は、一個を求める犬に桃太郎が半分しか渡さず、「持たぬものは持ったものの意志に服従する」と書く。芥川は、昔話の砂糖衣を少し削り、その下にある市場交渉、貧困、従属を露出させたのである。

本稿の判断手順は三つである。第一に、誰が交換を始めたのか。第二に、断るための現実的な選択肢があったのか。第三に、危険、意思決定、戦果が公平に分配されたのか。この三点で見ると、標準的な『桃太郎』には動物側の申し出と役割選択があるため、狭い意味での奴隷化とはいえない。しかし、食料を持つ者が隊長となり、受け取る者が家来になり、危険な労働と宝の管理が非対称である以上、そこには庇護関係、パトロネージ、搾取へ傾きうる構造がある。団子は友情の丸い顔をしているが、その影は意外に長い。

教育上の最善策は、この物語を「桃太郎は正義」「桃太郎は侵略者」のどちらか一枚の札に閉じ込めることではない。「犬は本当に自由に選べたか」「団子一個と命がけの遠征は釣り合うか」「誰が団子を作ったのか」「家来と仲間は同じか」と問い、複数の版を比べることである。文部科学省が掲げる「考え、議論する道徳」は、決まりきった答えを言わせる授業からの転換を求めている。『桃太郎』は、答えを教える教材というより、答えが揺れる様子を観察する教材としてこそ豊かである。

背景――「原典」は一冊ではない

まず足元の石を確かめたい。『桃太郎』には、すべての判断の基準になる唯一の「原典」があるわけではない。口承、近世の赤本・豆本、近代の再話、教科書、童謡、絵本、映画などを通じて、出生、鬼退治の理由、団子を作る人物、動物との交渉、宝の行方が少しずつ変化してきた。ジャパンサーチには江戸から明治にかけての多様な桃太郎資料が集成され、国立国会図書館も、江戸後期の豆本『桃太郎宝蔵入』について、桃を食べた老夫婦が若返って子をもうけ、成長した桃太郎に老夫婦がきび団子を作り、猿・雉・犬が同行する筋を紹介している。つまり、「桃から子どもが直接出てくる」という今日なじみ深い型さえ、長い変化の一地点なのである。

近代になると、巖谷小波の『日本昔噺』をはじめ、子どもの読書に適した簡潔で反復的な語りが広く流通した。『桃太郎』は一八八七年刊行の『尋常小学校読本』で学校教材となり、第二期から第五期までの国定国語教科書でも繰り返し採用された。物語は家庭の炉辺だけでなく、教室という大きな拡声器を得たのである。したがって、私たちが「昔からこうだった」と感じる桃太郎像には、近代の教育・出版制度によって選択され、磨かれた部分がある。

ここから導くべき最初の注意は、「きび団子には本来この意味があった」と一本の起源へ急がないことだ。昔話は、古木の年輪というより、何度も継ぎ足された川の流れに近い。同じ場面でも、ある版では主従契約に見え、別の版では仲間づくりに見え、さらに別の版では露骨な買収に見える。

もっとも、「昔話は法的契約書ではないのだから、語句を細かく読むのは野暮だ」という反論はありうる。確かに、反復表現には子どもが覚えやすく、語り手と聞き手が声を合わせやすいという物語上の機能がある。しかし、同じ反復が「団子を受け取ること」と「同行すること」を三度も結びつけ、その直後に身分語である「家来」が置かれるなら、交換と序列を読む根拠は十分にある。契約書として読む必要はないが、契約を思わせる場面として読むことはできる。

きび団子のテキスト史――贈り物が契約になる瞬間

楠山正雄版を開くと、きび団子はまず老夫婦のケアとして登場する。おばあさんは遠出する桃太郎の空腹を心配し、おじいさんとともに臼を出して弁当を作る。ここには見返りの条件がない。無事を願う家族の贈与である。ところが旅に出た桃太郎が犬に会うと、犬は「一つ下さい、お供しましょう」と提案し、桃太郎は「やるから、ついて来い」と応じる。猿と雉にも同じやり取りが反復され、三匹がそろうと、語り手は「いい家来ができた」と表現する。

この場面を順にほどいてみる。第一に、動物は桃太郎に捕えられたのではなく、自分から近づき、団子を求めて同行を申し出ている。ここには主体性がある。第二に、桃太郎は無条件には渡さず、同行を受諾した者だけに渡す。ここには交換がある。第三に、交換成立後の名称は「取引相手」でも「友だち」でもなく「家来」である。ここに身分の非対称が入る。この三段階を踏まえると、「食べ物で無理やり従わせた」という要約は強すぎるが、「食べ物を分けて自然に友情が生まれた」という要約も柔らかすぎる。より正確には、動物側から提案された交換を、桃太郎側が主従関係として回収する場面なのである。

ただし、動物たちは受動的な荷物ではない。海へ出ると犬は漕ぎ手、猿は舵取り、雉は物見を自ら申し出る。鬼ヶ島でも、雉は偵察と目への攻撃、猿は壁を登って門を開ける役目を果たし、犬も正面で戦う。彼らは、それぞれの身体能力をもつ専門家であり、桃太郎一人では遠征を成功させられない。したがって物語の行動面だけを見れば、「主人と三匹の道具」というより、「名目上は主従、実務上は相互依存するチーム」に近い。

国際交流基金の再話では、この緊張が現代的な言葉に置き換えられている。桃太郎は犬に「鬼退治に一緒に来るならあげましょう」と条件を明示し、犬は同意して「仲間」になる。猿と雉にも同じ出来事が続き、その後、一行はきび団子を食べながら旅をする。この変更は小さいようで大きい。「家来」は上下関係を示すが、「仲間」は同じ目的を共有する水平的な関係を連想させる。また、一人ずつ団子を支給するだけでなく、一緒に食べる描写が加わることで、報酬の配布が共食へ近づいている。

芥川龍之介の一九二四年の『桃太郎』は、この構図に虫眼鏡を当てる。飢えた犬が一個を要求しても、桃太郎は「半分やろう」と値切る。犬がなお求めても譲らず、語り手は「持たぬものは持ったものの意志に服従する」と断言する。猿が報酬の少なさに不満を述べると、桃太郎は遠征後の宝を分けないと告げて引き戻す。ここでは団子は親愛の記号ではなく、最低限の食料と将来利益を組み合わせた労務管理の道具になっている。

芥川版を「本当の桃太郎の正体」とみなすのも行き過ぎである。これは伝承の透明な記録ではなく、既知の物語を反転させる文学的風刺だからだ。しかし、風刺が効くのは、標準的な物語の中にすでに「資源を持つ指導者」と「資源を求める従者」という骨組みがあるためである。芥川は新しい骨を入れたというより、もともとの骨格にレントゲンを当てたと考えるほうがよい。

共食・贈与・庇護――民俗学と比較文化から読む

贈与論の視点では、物を渡す行為は、単なる物理的移動ではない。マルセル・モースの贈与交換論でよく知られるように、贈与には与えること、受け取ること、返すことが絡み合い、物を介して関係が生まれる。日本の教育思想研究でも、モースの贈与交換は、孤立した個人間の売買というより、集団間の関係や知・価値の伝承を含む社会的現象として論じられている。きび団子も、腹を満たすカロリーであると同時に、「あなたはこれから私たちの側に属する」という関係の印になる。

しかし、「食べ物を分けた」というだけで、すべてを温かな互酬性と呼ぶべきではない。岸上伸啓は食物分配を、分配が「ルールによる」「自発的」「要求による」のいずれで始まるか、食物の流れが「移譲」「交換」「再分配」のどれに当たるかという二軸で区別している。この整理を物語に試してみると、犬たちが団子を求め、同行というサービスを約束する場面は、無償の移譲よりも「要求によって始まる交換」に近い。もちろん、狩猟採集社会用の分析枠を昔話へ機械的に当てはめることはできないが、「分ける=善意」と一括せず、誰の要求で何と交換されたかを見る視点は有効である。

ここで重要なのは、標準的な場面が必ずしも「共食」ではないことだ。楠山版では、桃太郎と三匹が同じ卓を囲み、同じ鍋から食べるわけではない。桃太郎が腰の袋から一個ずつ配給し、受け取った動物が隊列に加わる。この形式は、祝宴よりも兵糧の支給、入団証、前払い報酬に近い。対して国際交流基金版が「きび団子を食べながら旅を続けた」とする変更は、食物を媒介とした所属を、より共同体的な姿へ移し替えている。

日本中世の共食研究では、一緒に食べることが集団の結合を強める一方、席次、料理、食べる場所の違いが身分秩序を表現し、食物や酒の供給が労働・支配とも結びつきうることが論じられてきた。つまり、同じ飯を食べることは平等の証しにもなれば、「誰が上座に座り、誰が配るか」を確認する儀礼にもなる。食卓は、ときに丸いテーブルであり、ときに見えない階段なのである。

庇護者―被庇護者、いわゆるパトロン―クライアント関係との比較も有益である。文化人類学上の整理では、この関係は個人的で、形式上は自発的かつ継続的であり、相互扶助を含むが、両者が提供するものは質的に異なる。上位者は資源、保護、仲介を提供し、下位者は労働、支持、忠誠を返す。桃太郎は食料、遠征への参加資格、将来の戦果へのアクセスを握り、動物は技能、危険負担、服従を差し出す。この点で、団子の交換は短期的なパトロネージに似ている。もっとも、動物たちが桃太郎の保護下で長期生活を送る描写はなく、関係も遠征中心なので、完全な一致ではない。

比較文化的に見る際は、「食物共有はどの社会でも友情を意味する」と普遍化しないことも大切だ。食物分配は、扶養、再分配、名誉獲得、同盟、儀礼、平等化、序列化など、社会によって異なる機能をもつ。桃太郎の団子についても、一つの民俗的起源へ固定するより、物語の中で誰が作り、誰が配り、何が返され、どんな名称で関係が結ばれたかを読むほうが堅実である。

反論として、「贈り物は必ず返礼を要求するものではない。無償の親切もある」といえる。その通りであり、だからこそ同じ団子の二つの移動を分ける必要がある。老夫婦から桃太郎への団子は、帰還と安全を願うケアの贈与である。桃太郎から動物への団子は、同行を条件とする交換である。物は同じでも、文法が違う。家族の台所で生まれた無条件の支えが、街道へ出た途端に、条件付きの動員資源へ変換されるのである。

同意か従属か――倫理・政治・心理の交差点

倫理的な判定では、「同意があったか」を一問で済ませないほうがよい。私は、選択、情報、配分の三段階で考える。

まず選択である。楠山版では犬たちが自ら申し出ており、桃太郎が危害を加えると脅したわけではない。そのため、脅迫を中心とする狭い意味の強制には当たりにくい。ただし政治哲学では、条件付きの「申し出」も、受け手に合理的な代替手段がない場合や、交渉力が極端に不均衡な場合には、搾取的、場合によっては強制的になりうると論じられる。飢えた者に食料を示し、危険な労働と結びつけるなら、形式上の「はい」だけで自由な同意を証明したことにはならない。

次に情報である。犬たちは「鬼退治へ行く」と聞いているため、目的が完全に隠されているわけではない。しかし、どれほど危険か、鬼が実際に何をしたか、戦利品を誰がどのように受け取るか、途中で離脱できるかは明示されない。契約論的にいえば、物語には交換の合意はあるが、十分な説明、対等な交渉、退出条項、紛争処理、利益配分の規則がない。これは完成した社会契約というより、道端で急いで交わされた口約束である。

最後に配分である。動物たちは戦闘で不可欠な仕事を担うが、楠山版の帰還場面では、宝は桃太郎の功績と家の繁栄へ集約され、三匹は宝車を引く側に回る。彼らが何を受け取ったかは明示されない。この沈黙は、平等な共同事業という読みを弱める。他方、鬼が村人から奪った物を取り戻し、共同体へ返す再話なら、桃太郎は私的な略奪者より公共的な代表者に近づく。倫理評価は、鬼退治の理由と戦果の帰属によって大きく変わる。

互酬性の観点からは、団子と同行が交換され、その後、動物が技能を提供し、桃太郎が共同目標と戦果への可能性を提供する。したがって「買収」という言葉だけでは、関係の継続性や共同達成を捉えきれない。しかし、交換価値が釣り合うとは限らない。一個の団子と、海を渡る軍事遠征、負傷や死の危険が等価かと問えば、首をかしげたくなる。昔話の団子に超自然的な力や象徴的価値を認める版なら釣り合いは回復するが、ただの弁当として読む版では、報酬はかなり小さい。

マルクス主義的に読むなら、団子は労働力を再生産する最低限の生活資料である。家庭内で老夫婦が作った食料を桃太郎が所有・配分し、動物たちはそれを得るため危険な労働を提供する。生産者である老夫婦のケア労働は遠征の物流基盤になるが、英雄譚の中心からは後退する。さらに、鬼ヶ島の宝という余剰を誰が管理するかも桃太郎側に委ねられている。すると桃太郎は、食料と目的と戦果を握る「小さな経営者」、動物たちは歩合の不明な遠征労働者に見えてくる。

もっとも、この読みを歴史的事実として押しつけてはいけない。昔話の家政と軍事遠征は近代資本主義の工場ではなく、団子は賃金通貨でもない。マルクス主義的読解の価値は、「これは本当は資本主義の話だ」と断定することではなく、誰が生産し、誰が所有し、誰が配り、誰が危険を負い、誰が余剰を得るのかという、普段は背景に溶けている線を見えるようにする点にある。

心理学的には、食べ物を受け取ることは二つの感情を同時に生みうる。一つは感謝であり、もう一つは「返さなくてはならない」という負債感である。日本の援助場面を扱った心理学研究では、感謝と負債感の双方が、援助者への返報行動の意図に影響することが示されている。きび団子を食べた動物が桃太郎のために働くのは、単純な満腹効果ではなく、恩義の感情を物語化したものとも読める。

また、食物は信頼のシグナルにもなる。旅の途中で貴重な食料を分ける行為は、「私は資源を独占するだけの者ではない」「この隊に入れば支援を受けられる」という小さな証拠になる。繰り返し三匹へ渡すことで、桃太郎は一貫性も示す。こうして団子は社会関係資本の種銭となり、見知らぬ者同士を共同作業へつなぐ。ただし、シグナルには裏面がある。与える者の寛大さが評判と権威を生み、受け取る者の負債感が従順さを支えるなら、信頼形成と支配形成は同じ動作から育つ。

この節の結論は、同意と支配を二者択一にしないことだ。犬たちは選んでいる。しかし、桃太郎のほうが資源、情報、名称、遠征目的、戦果を多く統制している。したがってこれは、同意はあるが厚みが薄く、互酬性はあるが配分が不透明で、協力であると同時に庇護的でもある関係と評価できる。

子どもにどう渡すか――児童文学と道徳教育

『桃太郎』は、長く学校教育と結びついてきた。一八八七年の教材化以降、複数期の国定教科書に採用され、時代ごとの善、勇気、忠義、国家像を託されてきた。これは昔話が無害な容器ではなく、何を善とし、誰を味方・敵と呼ぶかを学ばせる装置にもなりうることを示す。

だからといって、物語を「危険だから読ませない」とする必要はない。むしろ、版を一つだけ与え、教師が用意した正解へ着地させることのほうが問題である。文部科学省の道徳教育アーカイブは、登場人物の心情理解だけに偏る授業や、決まりきった答えを書かせる授業を課題として挙げ、答えが一つではない問題を自分の課題として考える「考え、議論する道徳」への転換を掲げている。『桃太郎』の団子場面は、その方針にかなう格好の小窓である。

授業では、まず楠山版の「家来」と現代再話の「仲間」を比べる。それから、「団子をもらわずについて行く選択はあったか」「途中で帰りたくなったら帰れるか」「犬、猿、雉も作戦会議に参加したか」「宝はどう分けるべきか」「団子を作った老夫婦は遠征の仲間に含まれるか」と問う。子どもは「契約論」や「生産関係」という言葉を知らなくても、お菓子一個と危険な仕事が釣り合うか、誘いを断れるか、みんなの成果を一人が持ち帰ってよいかという公平感覚をすでに使える。

低年齢では、感謝、約束、分け合い、断る自由を中心にできる。年齢が上がれば、情報の非対称、労働と報酬、命令と合議、敵の描かれ方、戦争宣伝まで広げられる。同じ話が年齢に応じて深くなるのは、井戸を掘るようなものだ。幼児には水面のきらめきが見え、中高生には底の石組みが見えてくる。

「子どもの物語を大人の政治で汚すな」という反論も理解できる。しかし、政治とは政党名を教えることだけではない。誰が食べ物を持つか、誰が決めるか、約束は公平か、弱い立場の者は断れるかという問いは、遊び場や給食、家族生活にもある。大人の結論を植えつけるのではなく、子どもの公平感覚が働く余地を開くなら、政治的読解は物語を汚すのではなく、物語の中にすでにある関係を丁寧に照らす。

教育的な着地点は、「桃太郎を善人と判定する」ことではない。よりよい仲間関係に書き換えることだ。たとえば、団子は無条件に分け、その後で参加を相談する。危険と目的を説明する。全員に拒否権と退出権を認める。役割と戦果を共同で決める。鬼側の話も聞く。こうした改作をすると、子どもは道徳を暗記するのではなく、制度を設計する側へ移る。

翻案が映す時代――メディア、批評、反転する視線

桃太郎の仲間たちは、メディアが変わるたびに別の制服を着せられてきた。一九二八年のアニメーション『お伽噺 日本一 桃太郎』では、きび団子を受け取った犬・猿・雉が従い、戦いに勝利して宝を運ぶ定型が映像化されている。字幕には犬と猿が「なさけにつきくる」、雉も団子をもらって供をするという趣旨があり、団子は恩情と忠誠を結ぶ視覚的な記号になっている。

戦時期になると、この編成は軍事組織へ拡大された。国立映画アーカイブは、『桃太郎の海鷲』を真珠湾攻撃を題材とした戦意高揚アニメーションで、映画法施行後初めて文部省推薦を受けたアニメーション作品、かつ海軍省後援映画と説明している。ここでは桃太郎の「多種の動物を率いる正義の遠征」が、指揮官と部隊、国家と臣民の図へ接続された。昔話の家来関係は、軍隊の命令系統へ滑らかに翻訳できたのである。

この歴史は、「団子で仲間を集める場面など、ただ可愛いだけだ」という見方への強い反証になる。物語のモチーフは、それ自体で必ず軍国主義的なのではない。しかし、食料を与える中心者、忠義を誓う従者、絶対的な敵、遠征、勝利、戦果という部品がそろっているため、国家動員の物語に組み替えやすい。『桃太郎 海の神兵』へ続く映像史は、その可塑性を示している。

一方、芥川版は早くから物語を逆さにした。桃太郎は勤勉な英雄ではなく、労働を嫌って遠征を始め、団子を値切り、宝を誘因に仲間を引き止め、平和に暮らす鬼の島へ侵攻する。鬼の側から「何をしたため征伐されたのか」と問わせることで、勧善懲悪のカメラを百八十度回転させる。ここで団子は忠義の美談ではなく、征服のための募集費になる。

現代の広告や娯楽作品では、桃太郎モチーフはさらに遊戯化されている。昔話の登場人物を現代商品や通信サービスへ移し、鬼と戦わず友人になる、団子に代わる商品が仲間づくりの媒介になる、といった反転が繰り返される。吉田秀雄記念事業財団の広告研究資料は、テレビ広告黎明期から桃太郎の筋やきび団子を商品に置き換えるパロディーが用いられ、近年の広告では鬼との対立そのものを外す再構成もあることを紹介している。桃太郎は固定された物語というより、誰もが知る部品箱になったのである。

遊戯的な読みでは、団子はゲームの参加トークンである。「アイテムを渡すと仲間キャラクターが加入する」という、現代のロールプレイングゲームにもなじむ明快な仕組みだ。この読みの利点は、物語の速度と楽しさを守れることにある。一方、加入条件があまりに自動的だと、人物の動機や関係の厚みが消え、仲間が「課金で解放されるユニット」のようにも見える。

転覆的な読みでは、犬・猿・雉を受け身の被雇用者ではなく、資源をもつ若者を見つけて、自分の技能を売り込む交渉者と考えられる。実際、標準的な文言では彼らの側から取引を提案し、航海時には自分で役割を申し出る。すると桃太郎が一方的に仲間を買ったというより、三匹が団子、冒険、戦果への機会を得るため、桃太郎を共同事業の旗印として利用したとも読める。

ポストコロニアルな読みでは、「文明側」とされる桃太郎が、海の向こうの異形の住民を一括して鬼と呼び、軍事遠征し、宝を持ち帰る構図が問題になる。鬼が先に村を襲い、奪った物を取り返す版なら、遠征は防衛・救済として正当化される。だが、鬼の罪が曖昧な版や芥川版では、敵の悪性は征服者側の物語によって作られた可能性が浮上する。ゆえに「桃太郎は植民地主義の寓話だ」と一律に断定するより、鬼の加害が具体的に示されるか、鬼に声が与えられるか、宝が誰に返るかを版ごとに確認すべきである。

フェミニストな読みでは、遠征を可能にした家庭内労働へ目を向ける。楠山版では老夫婦が共同できび団子を作り、おばあさんは桃太郎の身体と安全を気遣う。ところが旅が始まると、そのケアの産物は桃太郎の所有物となり、彼が仲間を動員する資源になる。作る者は物語の後景に残り、配る者が指導者になる。この構図は、家庭内で生産された食物やケアが公的な英雄行為を支えながら、その功績から見えなくなる仕組みとして読める。

ただし、「女性が完全に無力化されている」と決めつけるのも粗い。おばあさんは桃を拾い、育児を担い、食を用意し、物語の生命線を作る。彼女の行為なしに英雄は存在しない。問題は価値がないことではなく、価値が「当然の世話」として透明化されることだ。フェミニストな改作なら、おばあさんや老夫婦を遠征計画の意思決定者として登場させる、団子の配り方について条件を付ける、鬼側の女性や子どもの視点を描く、といった方法で、ケアと政治を再接続できる。

結論――きび団子は小さな政治である

では、「仲間に食べ物を与えて従わせる構図」を最終的にどう考えるべきか。

第一の答えは、一語で決めないことである。きび団子は贈り物でありうる。同行の対価でもありうる。兵糧、採用時の前払い、忠誠の印、信頼のシグナル、庇護者の資源、共同体への入場券にもなりうる。同じ丸い団子が複数の制度を重ね着している。

第二の答えは、関係を連続体として見ることである。無条件に分け、意思決定と成果も共有するなら、連帯と共食に近い。条件を明示し、十分な情報と拒否権があり、報酬も合意されるなら、契約に近い。資源をもつ指導者が継続的な忠誠と労働を受け取るなら、パトロネージに近い。受け手に現実的な代替肢がなく、困窮を利用して不利な条件を受け入れさせるなら、搾取、場合によっては強制へ近づく。

第三の答えは、標準的な『桃太郎』を連続体の中間に置くことである。犬たちは自ら申し出るので、純粋な強制ではない。彼らは専門技能を自発的に発揮するので、単なる所有物でもない。しかし、桃太郎が希少な食料を配り、「家来」という身分を与え、作戦と戦果を統括する以上、対等な友情とも言い切れない。最も落ち着きのよい表現は、資源の非対称を伴う、条件付きの相互協力である。

そして最も面白いのは、団子が桃太郎自身の生産物ではない点だ。老夫婦から無条件のケアとして受け取った物を、桃太郎は条件付きの政治資源として再配分する。家庭の愛情が、街道で契約になり、海上で兵站になり、鬼ヶ島で権力になる。きび団子は、優しさが社会へ出たとき、いつでも優しさのままでいられるとは限らないことを教えている。

だから、この場面を「食べ物で釣るのは悪い」と切って捨てる必要も、「分け与えたから立派だ」と磨き上げる必要もない。見るべきなのは、団子そのものより、その周りにできる円である。誰が円の中心に立つのか。誰が外から入れてもらうのか。入らない自由はあるのか。円の中で声と危険と宝は分けられるのか。

小さなきび団子が投げかける問いは、会社の報酬、政治的な利益配分、福祉と条件付与、友人同士の奢り、家庭内のケアにまでつながっている。『桃太郎』が長く生き残ったのは、単に鬼退治が痛快だからではない。人が何を差し出して仲間になり、何を受け取って従い、どこから友情が主従へ変わるのかという、古くて新しい難問を、子どもの手にも載る団子の大きさに丸めたからではないだろうか。

さらに読むための題名

『桃太郎』

『日本昔噺 第一編 桃太郎』

『桃太郎の誕生』

『桃太郎像の変容』

『桃太郎主義の教育』

『贈与論』

『中世における食生活の周辺――共食と支配をめぐる諸問題』

『狩猟採集民社会における食物分配の類型について――「移譲」「交換」「再・分配」』

『猿蟹合戦の源流、桃太郎の真実』

『桃太郎 海の神兵』

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