桃太郎を映画化するなら、中心テーマは何か

桃太郎
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エグゼクティブサマリー

結論から言えば、桃太郎を現代に向けて映画化する際の中心テーマは、「鬼退治」そのものではなく、〈他者を鬼と名づけてしまう共同体が、出会いと分有を通じて再生する〉ことに据えるのが最も強いです。もっと噛み砕けば、「排除の正義」から「関係を結び直す正義」へ、物語の心臓を移植する、ということです。桃・鬼・仲間・旅・親子関係・正義観のすべてが、このテーマのもとで無理なく再編できますし、現代的論点である移民・多文化共生・孤独・コミュニティ再生・環境・暴力の連鎖にも接続しやすい。しかも、説教臭くなりすぎず、冒険映画としての推進力も失いにくい。桃太郎という古い船に、いまの海図を載せ替えるなら、この航路がいちばん沈みにくいのです。 

この判断の理由は三つあります。第一に、桃太郎にはそもそも単一の「原典」があるというより、口承・草双紙・教科書・戦時宣伝・地域伝承を通じて形を変えてきた、多層的な物語史があります。したがって、映画化の仕事は「ひとつの正解を忠実再現すること」ではなく、「何を核として選び直すか」の編集です。第二に、桃・鬼・黍団子・動物たちは、単なる記号ではなく、若返り・呪力・他者・契約・方位・共同体の構造を背負った象徴です。第三に、近年のリメイク事例を見ると、視点の転換や主題の深化は作品の価値を高めうる一方、文化的固有性を表層だけで輸出しようとすると強い反発も招きます。つまり、いちばん必要なのは「ひねり」より「芯」であり、その芯は共同体と他者の関係に置くのが合理的です。 

ジャンルとしては、冒険映画を骨格に、ファンタジー寓話とロードムービーの筋肉をつけ、ところどころに社会派ドラマの神経を通す形が最適です。真っ黒なダーク・リメイクにしてしまうと家族層を切り捨てやすく、逆にお伽話そのままの明朗快活一路だと、いま観る意味が薄くなる。桃太郎は、金太郎飴のようにどこを切っても同じ味に見えて、実は切り口で風味が激変する題材です。子どもにとってはチームの冒険として、大人にとっては「正義が誰を悪と呼ぶのか」を問う寓話として、二重底で機能する設計が望ましいです。 

ただし、実写かアニメか、想定予算、上映尺、国内劇場中心か配信併用か、目標レーティングは未指定です。以下の提案は、その未指定部分を明記したうえで、もっとも汎用性の高い設計案として示します。

判断の手順

桃太郎の映画化で最初にやるべきことは、「原作に忠実であること」の意味を疑うことです。桃太郎は室町末期から江戸初期にかけて口承の世界で成立したとみられ、年代の判明する最古の文字資料は享保八年の豆本『もゝ太郎』です。その後、さまざまな桃太郎本が出版され、明治以降、教科書掲載を通じて「標準型」が全国化していったと考えられています。つまり、今日の私たちが「当然」と思っている桃太郎像自体が、歴史の途中で整えられた“編集済みの顔”です。映画化の議論は、この前提を踏まえないと、最初のボタンから掛け違えます。 

次に、モチーフの荷重を測ります。桃は若返りと魔除け、鬼は悪の象徴であると同時に、異文化・放逐者・資源独占者・権力に抗う者などの意味を背負いうる存在です。犬・猿・雉は、黍団子という「分けられる食べ物」によって結ばれる仲間であり、陰陽五行説との関係から鬼門に対抗する配置としても読まれてきました。旅は単なる移動ではなく、共同体の外へ出て境界を越える経験であり、親子関係は「授かった命」と「託された期待」の間で桃太郎を引き裂く軸になります。物語を運ぶ車輪がこれだけ多いなら、どの車輪を前輪にするかが主題設定です。 

そのうえで、現代社会との接続可能性を比較します。ジェンダー、移民、多文化共生、孤独、環境、権力と暴力。どれも接続は可能ですが、作品の中心テーマはひとつに絞った方が映画としては強い。一本の映画に論点を全部載せると、幕の内弁当ではなく、駅のホームでひっくり返した弁当になります。そこで、各論点を「主題」ではなく「主題を照らす角度」として整理し、もっとも多くのモチーフを束ねられる傘を探す。その傘が、前述した共同体再生と他者理解のテーマです。 

最後に、映画としての体温を見ます。日本の映画市場は二〇二五年に入場人員一億八八七五万六千人、興行収入二七四四億五二百万円で、邦画の構成比は七五・六%でした。他方、同年の洋画ヒットには『モアナと伝説の海2』『リロ&スティッチ』『ライオン・キング:ムファサ』『ウィキッド』など、家族向け・幻想性の強い作品が並んでいます。つまり、国内市場では「日本原作の強さ」と「ファミリー・ファンタジーの需要」が両立している。ここに桃太郎を差し込むなら、国内固有性を保ちつつ、国際的には“誰かを鬼にする物語”として理解可能な普遍的フレームが必要です。 

原作モチーフをほどく

まず桃です。桃太郎の桃は、ただのフルーツではありません。江戸期の桃太郎には、桃を食べて老夫婦が若返る「回春型」と、桃から直接子どもが生まれる「果生型」があり、江戸期には前者が多く、明治以降に後者が普及したとされています。さらに桃には、中国由来の辟邪信仰や、『古事記』で伊耶那岐命を救う桃の実に示される魔除け・境界防衛の呪力が重ねられてきました。ここから言えるのは、桃太郎の出発点は「英雄誕生」より先に、「生命の更新」「死と穢れからの回復」「境界を守る力」にあるということです。映画の主題を再生に置くと、桃はただちに物語の核燃料になります。 

次に鬼です。標準型の昔話では鬼は村から食べ物や宝物を奪う悪者として配置され、桃太郎はその征伐に向かいます。けれども、学術的には鬼はもっと可変的です。近年の研究では、鬼は死霊・自然現象・山人・異文化の人びと・公害や資源独占を行う者・暴力や権力に抗う者など、多様な類型を持つと整理されています。また、戦後以降の観光や地域文化の文脈では、鬼は恐怖や排除の象徴から、親しみや地域再生の資源へと再構築されてもいます。つまり鬼は、固定的な“悪の形”というより、社会が怖れや偏見や欲望を塗り込める仮面です。映画化で鬼を人間化する余地は、ここに十分あります。 

仲間と旅も重要です。標準型では桃太郎は犬・猿・雉に黍団子を与え、仲間に加え、鬼ヶ島へ向かいます。この構造だけでも、映画の筋としては非常に優秀です。なぜなら、仲間が増えるたびに主題が説明ではなく体験になるからです。しかも、犬・猿・雉は陰陽五行説における申・酉・戌として、鬼門の丑寅に対抗する配置と読む説もあり、単なる「動物三人組」では終わりません。黍団子は食糧であると同時に契約であり、分け前であり、共同体の最小単位です。パンを分ける映画はしばしば友情を描きますが、桃太郎では団子ひとつで世界の布が縫われる。地味な食べ物が、じつは物語のホチキスなのです。 

親子関係と正義観も、思った以上に重い。標準型では、子のいない老夫婦が桃太郎を大切に育て、鬼退治へ向かう息子を心配しつつ送り出します。ここには「授かった子ども」と「託してしまう期待」の二重性があります。桃太郎は愛されているが、同時に村の危機を背負わされる。さらに、昔話の標準型は勧善懲悪ですが、近代以降の桃太郎は教科書・地域振興・戦時宣伝のなかで「正しい征伐者」としても利用されてきました。ここをそのまま飲み込むと、映画はヒーロー譚になる一方で、現代の観客には「なぜ相手を倒すことが唯一の解か」が薄く見えてしまう。だからこそ、正義を「悪を殴る資格」ではなく、「傷ついた関係をどう終わらせるか」に移し替える必要があります。 

現代の文脈につなぐ

ジェンダーの観点から見ると、標準型桃太郎の冒頭にある「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」という分業は、近代的な性別役割のテンプレートとして読まれてきました。現代日本でも、内閣府が示す二〇二五年のジェンダー・ギャップ指数で日本は一四八か国中一一八位です。もちろん、桃太郎映画の主題をそのままジェンダー批判一本に絞ると、物語全体の射程はやや狭くなります。ただし、老夫婦の役割分担を更新し、鬼側にも女性や多様な身体を配置し、桃太郎自身の「男らしい英雄」像をずらすことは、作品の新鮮さと現代性を大きく高めます。ジェンダーは中心テーマとして単独で立てるより、共同体再生のなかで当然に再設計されるべき層です。 

移民・多文化共生との接続は、かなり相性がいい。出入国在留管理庁によれば、令和六年末の在留外国人数は三七六万八九七七人で過去最高を更新し、政府は「外国人との共生社会の実現に向けたロードマップ」で、安全・安心、多様性、個人の尊厳と人権を掲げています。桃太郎の「鬼」は、学術的には異文化への畏敬や排除の対象としても捉えられてきましたし、吉備の温羅伝説では、鬼とされる温羅を大陸由来の製鉄集団の首長とみる説もあります。ここから導けるのは、鬼を「異民族そのもの」と単純化することではなく、異文化との接触が、恐れと欲望と権力のなかで“鬼化”される過程を描く可能性です。桃太郎映画にこの視点を入れると、物語は急に二十一世紀の空気を吸い始めます。 

孤独・コミュニティ再生との接続も、きわめて強い。孤独・孤立対策推進法は、国と地方で総合的に孤独・孤立対策を進めるための基本理念と推進体制を定めていますし、内閣府の令和七年調査では、直接質問で「しばしばある・常にある」「時々ある」「たまにある」と答えた人の合計は約四割に達しています。桃太郎の物語は、よく考えると「ひとりで出発した者が、食べ物を分けながら仲間を得て、最後に共同体へ戻る」話です。これは孤独の時代の観客に、そのまま刺さる構造です。しかも、鬼ヶ島をただ潰して帰るより、裂けた共同体の接続を回復する終わり方のほうが、いまの社会感覚には深く届きます。桃太郎が抱えるべき感情は、勇気だけではなく、孤独と連帯の学習です。 

環境問題、権力と暴力の観点も無視できません。環境省の生物多様性国家戦略二〇二三―二〇三〇は、ネイチャーポジティブと、気候危機・生物多様性損失への統合的対応を掲げています。他方、桃太郎は近代日本で戦争遂行の物語装置へと転用され、「鬼」を敵国に見立てる「桃太郎パラダイム」が帝国主義戦争の言説に接続したことも指摘されています。さらに鬼の類型には、公害や資源独占の主体としての鬼も含まれる。要するに桃太郎は、環境破壊・資源争奪・暴力の正当化を描く器にもなりうるのです。ここを扱うなら、鬼ヶ島は単なる怪物の巣ではなく、資源・土地・記憶をめぐる紛争地帯として設計すべきです。そうすると冒険譚の背景に、現代の地層が沈みます。 

この比較からすると、ジェンダー、移民、多文化共生、孤独、環境、暴力はいずれも使えますが、最も統合力があるのは「孤独と排除で壊れた共同体を、他者との出会いで再生する」という主題です。ジェンダーはその共同体を誰が担うかの問題として、多文化共生は誰を内側に入れるかの問題として、環境は何を奪い何を残すかの問題として、暴力は正義がどこで怪物に変わるかの問題として、その傘の下に自然に収まります。主題は一本の木であるべきで、論点はその枝であるべきです。枝を幹にすると、木は立ちません。 

ジャンルごとの見立て

冒険映画として撮る場合、最大の利点は推進力です。仲間が集まり、旅をし、島へ乗り込む構造は非常に映画的で、家族層にも届きやすい。二〇二五年の『リロ&スティッチ』実写版も、家族の感情線を強く打ち出したことで家族観客を動員し、大きな興行的追い風を得ました。桃太郎もこの路線なら、仲間の魅力とロードムービーの快感で広い観客を拾えます。弱点は、鬼が“倒すべきラスボス”に縮みやすく、現代的な複雑さが抜けやすいことです。冒険だけで走ると、馬力はあるがハンドルが軽すぎる。 

ダーク・リメイクとして撮る場合、利点は主題の深さです。ギレルモ・デル・トロ版『ピノッキオ』は、父と子、喪失、ファシズム、不服従を前景化し、オスカー長編アニメ賞を受賞しました。これは、古典童話でも暗さや政治性を引き受ければ芸術的評価を獲得しうることを示しています。桃太郎でも、鬼ヶ島を暴力の記憶が堆積した場所として描けば、大人向けの強い映画になります。ただし、あまりに陰鬱に振り切ると、桃・団子・動物という桃太郎固有の祝祭性がしぼみ、家族市場を遠ざける危険が大きい。真夜中の海は美しいですが、ずっと真夜中だと桃色が死にます。 

悪役再中心化の路線、つまり鬼側から大きく読み替える方法もあります。『マレフィセント』は、悪役の視点へ反転することで物語を再活性化し、世界興収約七億五八四一万ドル、そのうち国際興収六八・二%を記録しました。続編も国際比率七六・八%と高く、視点反転が国際市場で機能しうることを示しています。桃太郎でも「鬼の側から見た侵略譚」は魅力的です。ただし、この方法だけだと、単なる正邪逆転で終わる危険がある。ヒーローを悪者にして終わり、では思考が一段しか深まりません。大事なのは「誰が正しいか」をひっくり返すことではなく、「なぜ相手を鬼と呼ぶ構図が生まれるのか」を掘ることです。 

社会派ドラマとして寄せる場合、移民・差別・資源争奪・地域の分断を正面から扱えます。しかし、民話の魅力である飛躍、象徴、遊びが薄まりやすい。逆に、ファンタジー寓話としてロードムービー化する場合は、象徴性を保ちつつ、現代的な寓意も織り込めます。ここで参考になるのは、文化固有の伝説をグローバル市場へ出す際の難しさです。『ムーラン』実写版は、文化的真正性や政治的背景をめぐる批判のなかで、中国公開時に lukewarm な受容にとどまり、興行的にも限定的でした。つまり、桃太郎を現代化するにしても、表層的な「アジア風スペクタクル」にすると危うい。最も賢いのは、民話の手触りは残しつつ、テーマだけ現代へずらすことです。これなら、説教にもエキゾチシズムにも転びにくい。 

したがって、ジャンルの最適解は、「家族向け冒険」の外形に、「寓話としての深み」と「ロードムービーとしての出会いの連鎖」を組み合わせることです。見た目は桃太郎、内臓は現代劇。お祭りの屋台に見えて、実は出汁が異様にうまい、そういう映画が理想です。 

据えるべき主題

では、中心テーマを一文でどう定義するか。私ならこう置きます。「鬼と名づけられた他者に出会うことで、桃太郎自身が“排除の正義”を脱ぎ捨て、壊れた共同体を再生する物語」です。ポイントは二つあります。ひとつは、鬼退治を否定しないこと。暴力や略奪や支配は現実に存在するので、対立そのものを消す必要はありません。もうひとつは、対立の解き方を変えること。鬼を皆殺しにして終わるのではなく、何が鬼を生んだのか、誰が利益を得ていたのか、どんな恐れが相互に積もったのかを明らかにし、そのうえで関係を結び直す。桃太郎が倒すべき本当の相手は、鬼そのものよりも、「相手を鬼に固定してしまう仕組み」です。 

この主題が優れているのは、原作モチーフをほとんど余らせないからです。桃は再生と魔除け、つまり“新しく始める力”として働く。旅は他者との接触そのものになる。仲間は異なる種・性格・利害を持つ協働のモデルになる。黍団子は、食べ物を分けることが契約であり信頼であることを示す。親子関係は、過去の期待をそのまま継ぐのではなく、次の世代が正義を再定義する動機になる。鬼は、排除された者、誤解された者、あるいは本当に暴力的な者を含む複合的な他者として立ち上がる。これほど主題との噛み合わせがいいのだから、他のテーマにするのは、よく切れる包丁で紙を切るようなものです。もったいない。 

逆に、見送りたい中心テーマもあります。「成長」だけでは薄い。桃太郎はもともと成長譚の骨格を持ちますが、いま映画化する理由としては弱い。「反戦」だけでも狭い。戦時期の桃太郎利用を踏まえると重要な論点ではあるものの、それ単独だと鬼ヶ島以前の豊かな象徴が枯れます。「ジェンダー」だけにすると、冒頭の分業や桃太郎の男性性批判はできても、鬼・旅・地域・環境まで抱え切れない。「移民共生」だけにすると、やや時評的すぎて、百年後に観たときの普遍性が落ちる。そこで、これらを包摂する上位概念としての「共同体再生」がいちばん強い。大きい傘ですが、骨組みはしっかりしています。 

このテーマ設定は、商業性と芸術性の折り合いにも向いています。子どもは「仲間が増える話」として観られる。家族は「親が子を送り出す話」として受け取れる。若年層は「ラベル貼りへの違和感」として読める。成人は「正義と暴力の捻れ」を味わえる。国際市場に対しても、「日本の怪物退治話」という説明だけでなく、「他者化された相手との関係修復を描く神話的冒険」として提示できる。これは翻訳しやすい。桃太郎を“日本ローカルな珍品”にせず、“日本から来た普遍的寓話”に変える鍵がここにあります。 

物語と映像の実装

脚本の焦点

脚本は、三つの問いに絞るべきです。なぜ桃太郎は旅に出るのか。なぜ鬼は奪うのか。なぜ人と鬼は互いを理解できなくなったのか。 標準型のままだと、最初の問いに対する答えは「鬼が悪いから」で終わりがちです。そこを一段深くし、村の疲弊、老夫婦の孤立、桃太郎自身の出自への違和感を導入する。鬼側にも、単純な残虐性だけでなく、資源枯渇、誤情報、指導者層の扇動、あるいは過去の侵害への記憶を与える。これで対立は立体になります。厚紙の切り絵だった鬼ヶ島が、急に奥行きを持つ。映画はこの瞬間から呼吸を始めます。 

プロットの骨子

第一幕では、桃太郎を「完成された英雄」としてではなく、愛されているのに居場所の定まらない子として置くのが有効です。桃の出自は祝福であると同時に、老夫婦と村の期待を一身に受ける呪いでもある。村は鬼の被害におびえているが、同時にどこかで外の世界を恐れ、内側だけで固まっている。桃太郎は鬼退治を口実に、じつは「自分が何者か」を確かめるために旅へ出る。この設計にすると、出発の動機が正義とアイデンティティの二重底になります。 

第二幕では、犬・猿・雉を、ただの賑やかしではなく、異なる共同体原理の代表として再定義します。犬は忠誠と境界管理、猿は機転と欲望、雉は俯瞰と移動性。三者三様に桃太郎の未熟さを映し返す鏡にする。黍団子を分ける場面は必ず丁寧に撮るべきです。ここは「仲間加入イベント」ではなく、この映画における最初の政治です。食べ物を独占せず分けるかどうか、条件付きの協力をどう結ぶか、誰が誰を対等とみなすか。その一口で、映画全体の倫理が決まります。 

第三幕の鬼ヶ島では、「鬼の正体は本当は人間だった」という単純な種明かしではなく、人間と鬼の双方に怪物性がありうることを見せるのが肝要です。島には暴力的な鬼もいれば、交易や生産を担ってきた者、戦いに疲れた者、子どもたちもいる。桃太郎が対決すべき真の敵は、双方の恐怖を利用して戦争を続けさせる指導者や利権構造に置くとよいでしょう。クライマックスは、敵将を倒して財宝を奪うより、奪われたものと奪ったものの循環を断ち切る選択にする。勝利の形を「征服」から「停止」に変えるのです。派手さは少し減っても、余韻は格段に深くなります。 

キャラクター解釈

桃太郎の性格設定は、明朗快活な万能ヒーローよりも、善意と短慮が同居する人物がよいです。勇敢だが、自分が正しいと信じる速度が少し速すぎる。だから旅の途中で何度か判断を誤る。その誤りが、彼を「鬼を斬る者」から「鬼という言葉を疑う者」へ変えていく。老夫婦は受動的な送り手ではなく、桃太郎を愛しながらも、自分たちの願望を子に預けてしまったことを後で知る存在にすると、親子線が厚みを持ちます。鬼側には、桃太郎と鏡になる若い鬼、あるいは鬼ヶ島を維持するために暴力を選んできた指導者を置くと、対立が心情と構造の両面で響きます。 

映像表現

トーンは、前半をやや明るく、後半へ行くほど陰影を増す設計が望ましいです。ただし終始ダークではなく、桃色・土色・水色・朱色が、旅につれて濁り、最後に混ざり直すような色彩設計が似合います。桃は柔らかな生命色、村は乾いた土と麦、鬼ヶ島は赤青黒の定型に寄りかかりすぎず、鉱物の灰・鉄の錆・深い藍を主調にして、単純な悪者感を避けたい。鬼の色に関する民俗的イメージや、丑寅に対する申酉戌の構図は、画面の方位感覚や衣装配置に活かせます。音楽は、和太鼓や笛だけで固めると観光ポスターになりやすいので、声や息づかい、打楽器、弦を混ぜた“移動する音楽”がよい。黍団子を分けるときだけ旋律がほどけ、争いの場面では拍が固まる、といった設計も有効です。 

象徴的モチーフの扱いでは、桃は一度きりの小道具ではなく、物語全体を通る反復記号にすべきです。桃の割れ目は誕生であり分断であり、熟れは豊穣であり腐敗の境界でもある。団子は、分け合いの象徴として繰り返す。鬼の角は、生まれつきの悪ではなく、共同体が視覚的に押しつけたラベルにも見えるようにデザインする。旅は一本道ではなく、川・山・野・海という異なる生態と生活圏を通過する構成にし、環境と共同体の関係を風景で語る。説明台詞を減らし、モチーフに仕事をさせるのが、こういう題材ではいちばん粋です。言葉は団子の串くらい、少ないほうが刺さります。 

商業性と届け方

観客層の中心は、一次ターゲットを家族層と若年層、二次ターゲットを成人層に置くのがもっとも現実的です。子ども単独向けにすると、鬼の曖昧さや共同体の傷を扱いにくくなる。成人専用の重厚路線にすると、桃太郎が本来持つ国民的知名度と親しみを自ら手放してしまう。二〇二五年の日本映画市場は大きく回復し、邦画が高い構成比を占めた一方で、家族向け・ファンタジー系洋画にも強い需要がありました。つまり、「国内で広く届く骨格」に「一段深い主題」を入れる余地は十分あります。商業性と芸術性は、綱引きしなくても同じ方向に歩かせられる。歩幅を合わせればいいのです。 

国際市場を意識するなら、売り文句は「日本の有名昔話の映画化」だけでは弱いです。海外では桃太郎の知名度が前提にならないため、“mythic adventure about how a boy learns not to turn others into demons” というレベルの普遍的フックが必要になります。視点反転型の『マレフィセント』が国際比率の高い興収を上げ、家族感情を核にした『リロ&スティッチ』実写版が近年大きな動員を得たことは、感情の普遍性があれば文化固有の物語も広く届くことを示しています。他方、『ムーラン』実写版の受容が示したように、文化的表層だけを壮麗に輸出すると反発を招く。したがって、国際向けには異文化風味を増すより、感情の入口を明確にすることが優先です。 

監督の方向性としては、家族の沈黙を撮れること、寓話の象徴を直喩に落としすぎないこと、そしてVFXや美術をテーマと接続できること、この三点が重要です。キャスティングは、桃太郎に“正統派ヒーローの清潔さ”だけでなく、“祝福と不穏を同時に帯びる顔”が必要です。老夫婦は、泣かせ役というより、愛情と願望の両方を背負える演技力がほしい。鬼側にはカリスマ性だけでなく、傷や疲労を見せられる俳優が向いています。ここは具体名を挙げるより、スター性よりも関係性を編める配役を優先したいところです。実写かアニメかは未指定ですが、アニメなら象徴の飛躍が利き、実写なら土地と身体の重さが利く。それぞれの強みは異なります。

配給戦略は、国内先行で文脈をつくり、その後に海外へ広げる形が妥当です。日本映画の国際展開では、映画祭や業界イベントを通じて文脈を与えることが依然として重要で、日本映画の国際的ネットワーク形成に日本側公的機関が関与している事例もあります。したがって、配給の第一歩は“売る”ことより“説明する”ことです。ポスターだけで鬼を怖く見せるより、予告編で桃太郎が鬼の子と向き合う一瞬を見せたほうが、この作品の違いは伝わるはずです。なお、国内劇場重視か、配信とのハイブリッドかは未指定なので、ここは製作体制に応じた再設計が必要です。 

最後にもう一度、答えをはっきり置きます。桃太郎を映画化するなら、中心テーマは「鬼退治」ではなく、「鬼というラベルで分断された世界を、出会いと分有によってつなぎ直すこと」に据えるべきです。 桃は再生、団子は契約、仲間は多様性、旅は越境、親子は期待の継承、鬼は他者化の装置。このすべてを一枚の布に織れるテーマが、ほかにありません。桃太郎は昔話です。でも、昔話とは古い話ではなく、古い器で新しい不安を受け止めるための道具です。いまの観客が必要としているのは、悪を一刀両断する少年よりも、誰かを鬼にしてしまう自分たちの癖に気づく少年でしょう。そこへ踏み込んだとき、桃太郎の映画化は単なる再商品化ではなく、ほんとうの意味での再話になります。 

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