エグゼクティブサマリー
「桃太郎」を学校へ移すとき、いちばん簡単なのは、桃太郎を生徒、犬・猿・雉を友人、鬼を嫌な教師やいじめっ子、生徒会長などに置き換える方法である。しかし、それでは昔話の衣装を制服に着替えさせただけで、再話としては浅い。しかも「鬼=悪い人」と固定すると、学校という閉じた共同体では、いじめや排除の構図そのものを再生産しかねない。
そこで本稿では、桃太郎の核を「桃から生まれた少年」ではなく、境界を越える主人公、異質な仲間との連帯、鬼と呼ばれた相手との対立、奪われた価値の回復という物語機能として捉える。この見方は、果実から生まれる型だけでなく、桃を食べた老夫婦が若返って子を得る「回春型」など複数の異伝が存在すること、また近代以降も桃太郎像が教育・児童文学・風刺・戦時映像などに応じて大きく書き換えられてきた歴史と整合する。(柳田國男『桃太郎の誕生』;鳥越信『桃太郎の運命』;巌谷小波『日本昔噺 第一編 桃太郎』)
最終案には、地方都市の公立中学校、文化祭直前という設定を採用する。主人公は転校生の「桃井真央」、通称モモ。犬・猿・雉は、それぞれ陸上部、パソコン部、放送委員の生徒として再配置する。「鬼ヶ島」は旧視聴覚室についたあだ名であり、最初は生徒会が「鬼」のように見える。しかし調べるうち、問題の本体が特定の悪人ではなく、教師による一方的な決定、生徒会の沈黙、噂による敵味方の単純化だったと分かる。
つまり、この再話で退治されるのは人間ではない。退治されるのは、「事情を聞く前に相手を鬼にする習慣」である。これは芥川龍之介「桃太郎」が原話の征服者/被征服者という構図を反転させた批評性を受け継ぎながら、学校物語としてはより建設的な「対話と手続きの回復」へ着地させる設計である。(芥川龍之介「桃太郎」;文部科学省『中学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』)
想定読者は中学生以上。語彙そのものは中学生が無理なく読める程度に抑え、大人が読むと「鬼とは誰か」「善意の集団でも不公正は起こる」という二層目が見えるようにする。桃太郎を「正しい主人公が悪を倒す一直線の物語」から、「自分が正義だと思った瞬間こそ、一度立ち止まる物語」へずらす。それが今回の再話の中心的な創作判断である。
桃太郎は、もともと一枚岩の物語ではない
現在もっとも親しまれている桃太郎は、川から流れてきた桃を老夫婦が拾い、桃から男児が誕生し、成長した桃太郎がきびだんごを携えて犬・猿・雉を仲間にし、鬼ヶ島へ渡り、鬼を降参させて宝を持ち帰る、という型である。明治期の巌谷小波『日本昔噺 第一編 桃太郎』は、近代児童文学における代表的な桃太郎テキストの一つであり、学校教育や児童向け出版を通じて「桃から生まれる英雄」という像が強く定着していった過程は、桃太郎研究でも重要視されている。(巌谷小波『日本昔噺 第一編 桃太郎』、博文館、1894、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵;鳥越信『桃太郎の運命』)
ただし、民間伝承の桃太郎はこの一本だけではない。柳田國男が『桃太郎の誕生』で比較した諸伝承には、桃から直接子どもが出てくる「果生」の型だけでなく、老夫婦が桃を食べて若返り、その後に子どもを得る型も含まれる。したがって、「昔の本当の桃太郎は必ずこうだった」と一本の原型へ還元するより、桃・老夫婦・子どもの誕生という素材が、地域と時代によって組み替えられてきたと考える方が安全である。(柳田國男『桃太郎の誕生』;鳥越信『桃太郎の運命』)
この違いは、学校再話を考えるうえで意外に大きい。桃から「突然完成した英雄」が出てくると考えれば、学校版桃太郎は天才的な転校生になりやすい。反対に、回春型まで視野に入れれば、桃は人そのものというより、共同体を変化させる触媒と読むことができる。川を流れる桃は、完成品の主人公を運ぶカプセルではなく、止まっていた日常へ何かを流し込む小さな異物なのである。
桃にも古くから生命力や魔除けを連想させる文化的背景がある。『古事記』では、黄泉国から逃げる伊邪那岐命が桃の実を投げて追手を退け、その桃に名を与える場面がある。ただし、これをそのまま「桃太郎の直接の起源」と断定することはできない。創作上は、「桃には、人を守る・境界を越えさせるイメージの蓄積がある」という程度に利用するのが妥当だろう。(『古事記』黄泉国段;柳田國男『桃太郎の誕生』)
もっと重要なのは、鬼の悪さがどの程度説明されるかである。現代の子ども向け再話では、鬼が人里を荒らしたり財宝を奪ったりしたため桃太郎が討伐する、と因果関係を明示することが多い。一方、桃太郎テキストの比較史をたどると、鬼征伐の正当性や桃太郎の人物像は常に同じではない。こうした揺らぎを鋭く利用したのが芥川龍之介の「桃太郎」である。芥川版では、桃太郎側の暴力や征服欲が戯画化され、鬼ヶ島側を見る視点が導入されるため、「主人公だから正しい」という昔話の自動装置が止められる。(芥川龍之介「桃太郎」、1924、青空文庫;鳥越信『桃太郎の運命』)
この批評性は、戦時期の映像化を見るとさらに重要になる。アニメーション映画『桃太郎の海鷲』や『桃太郎 海の神兵』では、桃太郎と動物たちの集団構造が戦争・軍事動員の文脈へ再編された。とりわけ『桃太郎 海の神兵』は1945年公開の長篇アニメーションであり、桃太郎という親しみやすい英雄物語が、国家的・軍事的な物語へも転用可能だったことを示す一次資料である。(国立映画アーカイブ作品情報『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』;鳥越信『桃太郎の運命』)
ここから学校版に引き継ぐべき教訓ははっきりしている。犬・猿・雉が桃太郎の命令に従って一斉に「敵」を倒すだけの筋は、友情物語に見える一方で、リーダーへの服従と敵の非人間化にも容易に傾く。だから学校再話では、仲間それぞれに「桃太郎に反対できる権利」を与える必要がある。仲間とは手下ではない。主人公の正義にブレーキをかけられる人こそ、本当の仲間である。
学校へ移植すると、何が桃で、何が鬼になるのか
学校を舞台に御伽噺を再配置する方法には、すでにいくつかの先例がある。左近堂絵里『桃組プラス戦記』は、学園を舞台として桃太郎や鬼を含む昔話的モチーフを現代のキャラクター関係へ組み直す漫画であり、昔話の役柄を「昔の出来事」として再演するのではなく、学園内の人間関係や宿命の構造へ変換するタイプの作品として参考になる。(左近堂絵里『桃組プラス戦記』、KADOKAWA書誌情報)
黒乃奈々絵『殲鬼戦記ももたま』も、桃太郎・鬼という民話的語彙を現代的な学校・若者の物語へ接続した漫画作品である。ここから得られる創作上のヒントは、「桃太郎の筋を全部コピーしなくても、鬼ヶ島、鬼、桃太郎という記号を学校制度の中へ置くだけで、読者は原話との比較を始める」ということだ。(黒乃奈々絵『殲鬼戦記ももたま』、マッグガーデン刊行情報)
一方、映像史で参考になる桃太郎の代表例は、必ずしも「学校もの」ではない。むしろ前述の戦時アニメーションのように、桃太郎を別の制度・時代へ移植した作品を見る方が、今回の再話には有益である。それらは、「桃太郎+仲間+鬼」という単純明快な構図が、新しい環境に入った瞬間、その環境の価値観まで背負い込むことを示している。(国立映画アーカイブ『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』)
教育との接点では、倉持よつば『桃太郎は盗人なのか?』が非常に示唆的である。同書は昔話をただ教訓として受け取るのではなく、「そもそも桃太郎は正しかったのか」という疑問から複数の桃太郎資料を比較する調査へ進む。フィクションとしての学校再話ではないが、一つの昔話を異本比較と問い直しの入口にするという意味で、学校版桃太郎を設計する際のよいモデルになる。(倉持よつば『桃太郎は盗人なのか?―「桃太郎」から考える鬼の正体』、新日本出版社)
したがって今回は、登場人物を一対一で着ぐるみのように変換する方法を採らない。「犬=忠実な生徒」「猿=ふざける生徒」「雉=よくしゃべる生徒」と決めると、動物の属性がそのまま生徒へのレッテルになってしまうからだ。代わりに、原話の機能を移す。
桃は「日常へ流れ込む異物」。学校では転校生や一枚の通知になる。
川は「境界を越えて情報が届く経路」。学校では廊下、校内放送、噂のネットワークになる。
きびだんごは「交換を通じて関係を作るもの」。学校では友達を買う報酬ではなく、一緒に食べながら理由を話す儀式になる。
犬・猿・雉は「異なる能力を持つ協力者」。学校では運動部、パソコン部、放送委員という異なる観察方法を持つ生徒になる。
鬼ヶ島は「こちら側から遠く見える場所」。学校では校舎の端にある旧視聴覚室、あるいは生徒が事情を知らない意思決定の場になる。
そして鬼は、一人の悪人ではなく、相手の事情が見えなくなったときに生まれる呼び名になる。
この変換なら、「桃太郎らしさ」を残しながら原話をコピーしない。昔話の骨を残し、制服だけではなく筋肉のつき方まで現代化する再話になる。
小学校・中学校・高校、どの学校を選ぶか
小学校はもっとも昔話との親和性が高い。桃から人物が現れ、三人の仲間を集め、「校舎の鬼ヶ島」を探検するという冒険を素直に楽しめる。対象を小学校中~高学年にするなら、対立は「図書室の本が使えなくなった」「遊び場所が一方的に決められた」といった具体的な問題にし、制度批判よりも「相手の話を聞こう」「一人で決めない」を前面に出す方がよい。読解上も、昔話との対応関係を見つける楽しさが中心になる。
高校を選ぶと、逆に風刺が強くできる。「鬼ヶ島」を生徒会執行部、校則検討委員会、推薦制度、進路指導、SNS上の匿名文化などへ広げれば、権力と正義の問題をかなり深く扱える。芥川版のような皮肉とも相性がよい。ただし、制度論が前に出すぎると、桃太郎である必要性が薄くなり、「校則をめぐる青春小説」に昔話の名前を貼っただけになりやすい。
最終的に公立中学校を選ぶ。理由は、中学生という時期が「昔話をまだ知っているが、昔話の正義をそのまま信じなくなり始める」読者層だからである。学習指導要領でも、中学校国語では文章を多面的に読み、根拠をもとに考えを形成することが重視され、道徳でも異なる立場や考え方を踏まえて物事を見ることが求められている。桃太郎を「正義の物語」として知った後で、その正義を再点検する作品は、その発達段階と相性がよい。(文部科学省『中学校学習指導要領〔平成29年告示〕解説 国語編』;同『特別の教科 道徳編』)
公立か私立かでは、公立を採る。私立学校にすると、学校独自の伝統、宗教、寮生活、校風などを物語装置にできる反面、「その特殊な学校だから起きた事件」に見えやすい。公立中学校なら、文化祭、部活動、委員会、先生と生徒という比較的共有されやすい語彙で話を進められる。ここでの狙いは現実の全国平均を忠実に再現することではなく、読者が説明なしに入れる舞台を作ることにある。
都市か農村かについては、地方都市または都市近郊がもっとも使いやすい。完全な大都市校だと桃・川・鬼ヶ島という民話的な余韻が弱くなり、山村校にすると逆に「昔話らしさ」を作り込みすぎる。川のある地方都市なら、昔話と現代の間に薄い橋を架けられる。「川辺市立みなと中学校」という架空校名にすることで、特定地域へのステレオタイプも避けられる。
文化祭を時間設定に選ぶ理由もある。文化祭は普段別々に動いている部活動・委員会・教師・クラスが同時に交差する。桃太郎に必要な「旅」を、校外へ出なくても成立させられる。廊下一本が川になり、旧校舎までの数十メートルが海になる。学校という小宇宙では、距離はメートルではなく、「普段行かない場所まで何枚の心理的な扉があるか」で測れる。
桃太郎、犬、猿、雉、そして鬼をどう配役するか
主人公は「桃井真央」、通称モモ。中学二年の転校生とする。女子生徒にするのは、「桃太郎=男児」というデフォルトを一度外すためであり、同時に物語の主題をジェンダー論だけにしないため、性別そのものを大事件にはしない。モモは強いリーダーではなく、転校してきたばかりだからこそ学校の「みんな知っている常識」を知らない。「どうして?」と聞けることが最大の能力である。
転校生にしたのは、桃からの誕生をもっとも自然に学校語へ翻訳できるからだ。新しい生徒は、ある朝突然、完成した人格としてクラスの日常へ流れ着く。クラスから見れば、川上を知らない桃に少し似ている。
犬役は「犬飼レン」。陸上部員。忠誠心ではなく、足を使って人に聞きに行く粘り強さを担当する。原話の犬を「従順」に縮めないためである。
猿役は「猿渡ミナ」。パソコン部。軽口をたたくが、情報を整理し、教室使用予定や時間割から別案を組み立てる。猿の「器用さ」を、現代では問題解決能力へ変換する。
雉役は「雉原ソラ」。放送委員。声そのものより、複数の立場を上から見渡す「鳥瞰」を担当する。クライマックスで桃太郎の暴走を止めるのも雉原にする。「桃太郎の仲間=桃太郎の意見に賛成する人」ではないことを、一番はっきり示せる役だからだ。
三人を教師ではなく生徒にする理由は、仲間集めを水平な関係に保つためである。教師が犬・猿・雉の一人に入ると、桃太郎の冒険が成人の保護・許可によって成立する構図になりやすい。ただし、最終解決には教師を登場させる。学校では生徒だけで制度的問題を解決できるとは限らず、責任ある成人が自分の決定について説明し、必要なら謝罪・修正する場面を置く方が現実的である。
「おじいさん・おばあさん」は無理に対応させない。再話でありがちな失敗は、原話の登場人物を一人残らず現代人へ割り当てようとすることだ。しかし、役割のない対応人物は、物語の廊下に置かれた使わないロッカーのようなものになる。今回、養育者の機能は主人公の日常背景へ溶かし、舞台上には出さない。
きびだんごは家庭科部の文化祭試作品にする。ただし、「これをあげるから仲間になれ」という取引にはしない。「四人で一つを分けながら、なぜ参加するか話す」場面へ変える。これなら原話のアイコンを保ちながら、人間関係を食べ物で購入する構図を避けられる。
そして最重要なのが鬼である。悪役の名前を「鬼塚先生」にする、といった案は捨てる。分かりやすいが、あまりに分かりやすすぎる。最終案では、最初に生徒たちが「生徒会が鬼だ」と思い込む。しかし実際には、生徒会も教師から急な方針を渡され、十分に説明できずにいる。
つまり、最終的な「鬼」は三つある。急いで決める制度、説明しない沈黙、相手を悪者にして安心する噂である。
誰にも角は生えていない。それでも鬼は生まれる。この逆説が学校版桃太郎の心臓部になる。
プロット、テーマ、語り口をどう組み上げるか
物語の構造は、原話の運動をかなり忠実に残す。
発端は、文化祭五日前。複数の小規模な部活動の展示を中止する通知が出る。作品は旧視聴覚室へ移され、その部屋が以前から「鬼ヶ島」と呼ばれている。噂では「生徒会が人気のない部を追い出した」ことになっている。これが原話における「鬼が宝を奪った」という情報に相当する。
仲間集めでは、モモが一人で抗議しようとするが、犬飼、猿渡、雉原を順番に巻き込む。重要なのは、三人が同じ理由で参加しないことだ。犬飼は困っている友人がいるから、猿渡は決定の数字が変だと思うから、雉原は「生徒会が鬼」という噂そのものが気になるから加わる。三者三様の理由があることで、仲間が「主人公のコピー」になるのを防ぐ。
第一の対立では、生徒会が説明を拒んでいるように見える。ここでは読者にも「やっぱり鬼だ」と思わせてよい。ただし、生徒会員を意地悪に描きすぎない。視線を合わせない、忙しそうに「決まったことだから」と答える程度にする。
中盤の反転で、旧視聴覚室へ行った四人は、作品という「宝」とともに会議記録を見つける。文化祭直前の雨天対応で屋外企画を屋内へ移す必要が生じ、担当教師が短時間で「参加人数の少ない展示から場所を空ける」と決めていたことが分かる。生徒会は命令の実行者だった。ここで物語の問いが「悪い生徒会を倒せ」から「では、誰が悪いのか」に変わる。
クライマックス直前、モモは「だったら先生に抗議しよう」と拳を握る。そこで雉原が主人公を止める。「悪い人を一人見つけると話は簡単になる。でも簡単になりすぎた話では、たいてい誰かの声が消える」。これは、芥川版「桃太郎」の批評性を中学生向けに変換した場面になる。(芥川龍之介「桃太郎」)
クライマックスは戦闘ではなく、臨時の文化祭会議。犬飼は当事者から集めた声、猿渡は時間交代制などの代替案、雉原は個人を晒さない形で編集した意見、モモは「決め方」の問題を提示する。教師は、時間がないことを理由に当事者抜きで決めた責任を認める。生徒会も説明不足を認める。
解決では、展示を交代制で復活させるだけでなく、「次回から重大な変更は対象団体へ事前に説明する」という小さな手続きを残す。原話の宝は金銀財宝だが、この再話で持ち帰る宝は参加する権利と、決定に声を届ける手続きである。
テーマは「話し合えば何でも解決する」という甘いものにはしない。対話には情報、代替案、責任の所在が必要だというところまで描く。「仲良くしましょう」で終えるのではなく、学校のルールを少しだけ変える。友情という毛布だけで制度の穴を隠さないことが大切だ。
語り口については、三つの方向を比較できる。完全なユーモア型なら、犬飼・猿渡・雉原という名前遊びや、きびだんごを巡る掛け合いを増やせる。シリアス型なら、排除された生徒の傷つきを中心にできる。風刺型なら、生徒会や学校組織を「鬼ヶ島政権」のように戯画化できる。
最終案はユーモア六、シリアス三、風刺一くらいがよい。笑いは扉、倫理的問題はその奥の部屋である。最初から説教の看板を出すと、中学生の読者は廊下で引き返してしまう。
語りは三人称・モモ寄り。第一人称にすると主人公の誤解が強く見えすぎ、全知視点にすると「生徒会は本当は悪くない」と読者が早く知りすぎる。モモが誤解し、読者も一緒に誤解し、証拠を見て一緒に考え直す距離がちょうどよい。
場面のサンプルとして、仲間集めならこうなる。
「団子一個で仲間になるほど安くないよ」とミナは言った。
「知ってる。これは会議のおやつ」
「じゃあ二個なら?」
「急に値段をつけないで」
対立場面では、桃太郎らしい勢いをいったん出す。
「鬼ヶ島へ行こう」
モモが言うと、ソラは首をかしげた。
「その前に聞くけど、鬼って誰?」
四人とも答えられなかった。
クライマックスでは、物語の価値観をひっくり返す。
「鬼退治をしに来たんじゃありません」
モモは握っていた紙を開いた。
「鬼って呼ばなくても話せる学校にしたいんです」
いじめ、権力、正義を扱うときの安全装置
学校を舞台にすると、「鬼」という比喩は急に重くなる。昔話の鬼は物語上の異形の敵として処理できるが、教室で特定の生徒や教師を「鬼」と呼べば、それはラベリングや排除になりうる。いじめ防止対策推進法は、児童生徒間の一定の関係において心理的・物理的な影響を与え、対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じる行為を「いじめ」として捉える。学校再話では、「悪者をみんなで懲らしめる」という爽快感を安易にクラス内へ移植しない方がよい。(『いじめ防止対策推進法』、e-Gov法令検索;文部科学省のいじめ防止関連資料)
特に避けたいのは、「実は鬼役の生徒にも悲しい過去がありました。だから仲直りしました」というだけの解決である。被害を受けた側に和解を強要する印象になりかねない。いじめを題材にする場合は、被害の停止、安全確保、成人による対応を先に置き、友情や許しは本人が選べるものとして扱うべきである。今回、事件を直接的ないじめではなく「文化祭の意思決定」にしたのは、その安全性も理由の一つである。(文部科学省「いじめの防止等のための基本的な方針」関連資料)
教師をラスボスにしないことにも意味がある。ただし、教師を無罪にもしない。最終案の教師は悪意を持っていないが、時間に追われて一方的な決定をする。善意と責任は別物だからである。「悪気はなかった」で終わらせず、教師自身が決め方の不備を認め、修正する。
生徒会も同様である。権限があるように見えて、実際には教師の決定を伝達するだけの場合もある。この上下関係を描くことで、「力を持って見える人」と「本当に決定した人」を区別する読み方ができる。ただし、これは架空の学校の物語設計であって、現実のすべての学校組織が同じ構造だという意味ではない。
犬・猿・雉のキャラクター造形にも注意する。「犬だから従順」「猿だからお調子者」「雉だからおしゃべり」とすると、動物の固定観念が人間の固定観念へ変わってしまう。そこで犬飼は「聞き歩く」、猿渡は「組み替える」、雉原は「俯瞰する」と、動物の連想を能力の比喩へ一段抽象化した。
きびだんごも小さな倫理ポイントになる。原話では仲間獲得の交換物だが、学校では「食べ物をやるから自分の側につけ」という描写は、友人を報酬で動かす印象を与える。今回の団子は報酬ではなく共有物にする。物語上必要ならアレルギー等への配慮を台詞一つで入れることもできるが、短篇ではそこを説明しすぎず、「買収ではない」ことを明確にする方を優先した。
そして最大の安全装置は、主人公が間違えることである。
桃太郎を最初から道徳的に完成させない。モモも「生徒会が鬼だ」と信じ、怒る。仲間から止められ、資料を読み、考えを修正する。「正しい主人公がみんなを教育する物語」より、「主人公も学び直す物語」の方が、教育的メッセージを説教臭くせずに伝えられる。
文部科学省の道徳教育が掲げる多面的・多角的な見方という観点からも、一つの出来事を桃太郎側・鬼側、生徒側・生徒会側・教師側から読み直す構成には教育的な応用可能性がある。ただし、作品自体を教材の模範解答にしてはいけない。「鬼は制度でした」が唯一の答えなのではなく、読後に「それでも先生の責任は重いのでは」「生徒会はもっと説明できたのでは」と異論が出る余地を残す方がよい。(文部科学省『中学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』)
今回の創作判断を一文に圧縮すると、こうなる。
昔の桃太郎が「誰を倒すべきか」を問う物語なら、学校の桃太郎は「誰かを鬼と呼ぶ前に、何を確かめるべきか」を問う物語にする。
主な研究基盤として参照したのは、柳田國男『桃太郎の誕生』、鳥越信『桃太郎の運命』、巌谷小波『日本昔噺 第一編 桃太郎』(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)、芥川龍之介「桃太郎」(青空文庫)、倉持よつば『桃太郎は盗人なのか?―「桃太郎」から考える鬼の正体』(新日本出版社)、左近堂絵里『桃組プラス戦記』(KADOKAWA)、黒乃奈々絵『殲鬼戦記ももたま』(マッグガーデン)、国立映画アーカイブの『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』作品資料、文部科学省『中学校学習指導要領解説 国語編』『特別の教科 道徳編』およびいじめ防止関連資料、e-Gov法令検索『いじめ防止対策推進法』である。
完成版再話「鬼ヶ島は、生徒会室にはない」
文化祭まで五日。川辺市立みなと中学校の廊下に、桃色の紙がひらひら落ちていた。転校生の桃井真央――みんなには「モモ」と呼ばれている――が拾うと、「小さな部の展示は中止。作品は旧視聴覚室へ」とある。旧視聴覚室は校舎のいちばん端。いつからか「鬼ヶ島」と呼ばれていた。
「生徒会が宝をさらったんだって」
噂は川より速かった。モモも最初は腹を立てた。けれど、一人で鬼退治に行くほど勇ましくはない。そこで陸上部の犬飼レン、パソコン部の猿渡ミナ、放送委員の雉原ソラに声をかけた。家庭科部の試作品、きびだんごを四つに割りながら。
「団子一個で仲間になるほど安くないよ」とミナ。
「知ってる。これは会議のおやつ」
それで三人は笑い、仲間になった。レンは「誰が困っているか」を聞き歩き、ミナは教室の使用予定を集め、ソラは「鬼って誰のこと?」と噂の出どころをたどった。
鬼ヶ島へ乗り込むと、そこに鬼はいなかった。あったのは段ボールいっぱいの絵、模型、詩集、写真。そして生徒会の議事メモだった。雨で校庭企画が屋内に移り、先生が「参加人数の少ない展示から場所を空ける」と決めていたのだ。生徒会は反対できず、説明もしなかった。誰か一人の悪意ではなく、急いだ決定と、黙ったまま広がった噂が、角を生やしていた。
モモは拳を握った。でもソラが言った。
「悪い人を見つけたら、話は簡単。でも簡単すぎる話って、だいたい誰かの声が消えてる」
翌日の臨時会議。レンは空き時間を調べ、ミナは展示を交代制にする案を作り、ソラは中止された部の声を、名前が特定されない形で紹介した。モモは最後に言った。
「鬼退治をしに来たんじゃありません。鬼って呼ばなくても話せる学校にしたいです」
先生は決め方が一方的だったと謝り、生徒会も説明不足を認めた。展示は時間交代で戻り、次からは変更前に当事者へ知らせる決まりもできた。宝物は、作品だけではなかった。自分のことを自分抜きで決められない、という小さな約束も持ち主のところへ帰った。
文化祭のあと、鬼ヶ島という呼び名は消えた。代わりに旧視聴覚室の扉には、誰かが桃色の紙を貼った。
「ここから先、話し合いの島。」
モモはそれを見て笑った。桃太郎は、鬼を倒さなくても帰ってこられるらしい。

コメント