なぜ大人になると世界がわからなくなるのか

よく知らないこと
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はじめに:「大人になればわかる」はずが…?

子どもの頃、「大人になれば何でもわかるようになる」と漠然と信じていませんでしたか?しかし実際に大人になってみると、かえって世の中のことがわからなくなる瞬間に出会います。例えば、何気ない朝や仕事帰りにふと「…あれ?自分は本当はどう生きたいんだっけ?」と立ち止まることがあります。20代の頃より経済的・精神的に余裕が増え、知識も増えたはずなのに、心だけが取り残されたようなモヤモヤを感じる──そんな経験はないでしょうか。

実はこうした「大人の迷い」はあなただけではありません。多くの人が感じているものであり、決して「自分が未熟だから」起きるのではないと指摘する声もあります。では、「大人になると世界がわからなくなる」とは具体的にどういう現象なのでしょうか? そしてなぜそんな現象が起こり、現代においてどんな意味を持つのでしょうか。本記事では、社会・歴史・個人の視点を横断しながら、この問いの構造や背景、論点を一緒に整理してみたいと思います。結論を急がず、「なんだかよくわからない」という感覚を出発点に、ゆっくり考えを深めていきましょう。

1. 「大人になると世界がわからなくなる」とは何か

まず、このテーマが指す現象を確認しましょう。端的に言えば、年齢を重ね知識や経験が増えるほど、物事の正解が見えにくくなるという感覚です。子どもの頃は単純明快に思えた世の中が、大人になると複雑で判断に迷うことが増える──そんな経験は誰しも思い当たるのではないでしょうか。

ある人は「大人になって一番思うのは、本当に正解なんてないということだ」と述べています。人の数だけ視点があり、絶対的な答えは存在しない。何をしても正解でもあり不正解でもあるように感じ、「だから好きに生きれば良い…とはいえ失敗は避けたいし…」と考え始めると、余計に訳がわからなくなる。歳を取って見方が増えれば増えるほど、かえって何が何だかわからなくなる、というのです。

この現象を心理学的に捉えれば、ダニング=クルーガー効果とも関連づけられます。これは「能力の低い人ほど自信過剰になり、熟達するほど自分の限界を自覚して慎重になる」という認知バイアスです。実際、進化論で知られるダーウィンも「無知は知識よりも頻繁に自信を生む」と述べています。つまり、知らないうちは簡単に「わかった気」になれるけれど、知れば知るほど世の中の複雑さに気付き自信が揺らぐというパラドックスです。

もう一つ、この「世界がわからない」という感覚には自分自身や他人への理解の難しさも含まれます。大人になるにつれ、自分の考え方の拠り所だった記憶や経験でさえ美化や改変が生じていることに気づき、「本当の自分とは何だろう?」と不安になることがあります。また他者についても、過去の経験から「きっとこの人はこう思っているだろう」と想像で決めつけがちですが、本当に人の気持ちをわかることは難しいと悟ります。むやみに「わかったつもり」にならず、それでも分かろうと耳を傾け続けるしかない──まさに大人になるとは、物事のわからなさを思い知ることだと言えるでしょう。

要するに、「大人になると世界がわからなくなる」とは、世界についての見通しや自分なりの答えを得たつもりが、年齢と経験を重ねるほど揺らいでしまう現象です。それは決して異常なことではなく、むしろ自然な心の動きとも言えます。この感覚がどのように生まれ、どのような背景を持つのか、次に歴史の視点から考えてみましょう。

2. 歴史的背景:かつての「大人」と現代の「大人」の違い

歴史を振り返ると、「大人になれば世界がわかる/わからない」の構造自体が変化してきたことがわかります。心理学者の河合隼雄は著書『大人になることのむずかしさ』の中で、古代社会近代社会における大人と子どもの関係の違いを示しています。

古代社会では、社会や世界の形が非常に安定的で滅多に変化しませんでした。人々は生涯でただ一つの「出来上がった世界」を相手に生きていたのです。子どもは成長の通過儀礼(イニシエーション)を経て大人の仲間入りをしさえすれば、一人前の“大人”としてその安定した世界に受け入れられました。いったん大人になってしまえば、その後はずっと「大人は大人でいられる」──世界の枠組み自体が大きく変わらないので、一度身につけた知恵や常識が一生通用したのです。

しかし時代が流れ、私たちが生きる近代以降の社会は「進歩」や急激な変化が前提となりました。技術や価値観が右肩上がりに更新され、世界はAからB、BからCへと常に姿を変えていきます。そのような世界では、例えば時代Aで子どもから大人になって社会に出ても、時代Bに移れば前の時代に一人前だった大人も、新しい時代の子どもと同じ立場に立たされてしまうのです。河合は「何もしなければ、せっかく『大人』になっても次の時代の『子ども』と同レベルになってしまう」と指摘しています。つまり近代社会では、一度大人になった後も絶えず学び直し適応し続けないと、「大人で居続ける」ことができなくなったのです。

日本の歴史で考えてみても、江戸時代までの身分制度的な社会や、明治以前の伝統的共同体では、各人が生涯に果たす役割が比較的固定されていました。農民の子は農民、商家の子は商人と、世代を超えて価値観も継承されやすかったのです。ところが明治維新以降の急速な近代化、西洋化、さらには戦後の高度成長とバブル崩壊…と劇的な変化が続いた結果、「親世代の常識が子世代には通用しない」状況が当たり前になりました。現代の30代後半の大人が子どもだった約30年前と比べても、インターネットの普及やグローバル化で世界の姿は大きく変わっています。親や先輩から教わった「これが大人の生きる道筋」が、そのまま今の社会で有効だとは限らないのです。

以上をまとめると、歴史的には「世界がわからなくなる大人」が生まれた背景には、社会変化のスピードと複雑化があります。かつては一度身に着けた世界理解で済んだものが、近代以降は通用しなくなり、常にアップデートを迫られる。この構造的な困難さが「大人になることの難しさ」として意識されるようになったのです。だからこそ現代では「一生勉強」「生涯学習」という言葉が重みを増しています。次の章では、その現代社会における具体的な状況を見ていきましょう。

3. 現代社会における「わからなさ」の正体

では、私たちが生きる現代社会とはどんな世界なのでしょうか。ひと言で表すなら、現代は「VUCA(ブーカ)の時代」と言われます。VUCAとは以下の英単語の頭文字を取った造語です:

  • Volatility(変動性):物事の変化が激しく振れ幅も大きいこと。
  • Uncertainty(不確実性):将来の予測が困難であること。
  • Complexity(複雑性):様々な要因が絡み合い因果関係が見えにくいこと。
  • Ambiguity(曖昧性):解釈が複数あり何が正解かわからないこと。

技術革新によってあらゆる環境が複雑化し、先行きが読めない状況が続く今、まさに「変動・不確実・複雑・曖昧」な時代なのです。この章では、現代社会における「世界のわかりにくさ」が具体的にどんな形で現れているか見ていきます。

複雑すぎる世界と情報過多

現代の世の中は明らかに過剰に複雑化しています。ある論者は、「現在の人間社会は言語化できる複雑さの限界を完全に突破している」とさえ表現します。例えば彼は架空のエピソードを用い、いじめ被害者の少年が加害者一家に放火してしまったケースを想像しています。少年を追い詰めた加害者にも家庭内暴力の事情があり、その父親の暴力はリストラ(経済要因)が背景で…と原因を辿っていくとサブプライムローン(グローバル経済)にまで行き着く。一つの悲劇の背後にこれだけ多層的な要因が絡んでいるとしたら、もはや「言語化できないほど無茶苦茶だ」と感じるのも無理はありません。

また日常の議論でも、「日本は不景気だ」と言えば「根拠は?他の国は?」と無数の切り返しが出て話がぐちゃぐちゃになる経験が増えました。一見すると議論をややこしくする人が悪いようですが、実際には世界そのものが複雑化しすぎていて簡単に結論づけられないのです。情報通信技術の発達によって私たちは膨大なニュースや知識にアクセスできますが、それらはしばしば断片的で矛盾し、玉石混交です。一つのテーマでも専門家によって正反対の意見があり、ネット上では真偽不明の情報が飛び交う…。こうした情報過多と知見の多様化も、現代人の「何が正しいのかわからない」という感覚を強めています。

さらに社会問題もグローバルに連鎖します。ある地域の戦争や疫病がエネルギー価格やサプライチェーンを通じて世界中に影響を及ぼし、遠い国の選挙結果やSNS上の出来事が自国の社会に波及する。単純な原因と結果の図式では説明できない現象が日常茶飯事になりました。現代に生きる個人は、この巨大で複雑なシステムの只中で生きています。

価値観の多様化と曖昧性

現代社会のもう一つの特徴は、価値観の多様化です。かつては社会や地域ごとに「みんなが共有する常識」や「当たり前の人生コース」がありました。しかし今は、人々の信念やライフスタイルは千差万別で、何が正解か一概に言えない曖昧な状況が増えています。たとえば働き方一つ取っても、ある企業ではテレワークを「生産性向上」と評価する一方、別の企業では「コミュニケーション低下で創造性が落ちる」と真逆の判断をします。子育てにしても「昔ながらの厳格な教育が良い」という人もいれば「今時の自由な育児が良い」という人もいる。結婚観も宗教観も、人によってまるで違います。

このように一つの現象に対して複数の解釈が並立し、社会全体で共通認識を持ちにくい時代では、「何を信じ、どう行動すべきか」自信を持つことが難しくなります。誰かがシンプルな答えを提示してくれることを期待しても、専門家ですら意見が割れることがしばしばです。結果として、多くの人が「自分の判断に確信が持てない」「本当のところがわからない」と感じるようになるのです。

シンプル化への欲求と現実とのギャップ

皮肉なことに、人々がこうした複雑さに直面するとき、逆に世界を単純化して捉えたいという欲求も生まれます。先の論者は「今はシンプル化の時代でもある」と述べています。ネットスラングやキャッチーな流行語が氾濫し、「エモい」「ヤバい」「草」など極端に簡略化された言葉で物事を片付けてしまう風潮があります。政治や社会問題でも、「○○さえ無くせば全て解決」というような単純な物語が支持を集めることがあります。しかし、複雑すぎる世界に対し、人間の語る言葉だけが単純化していくのは危うい傾向です。複雑な現実を無理に白黒はっきり割り切ろうとすると、大事な論点を見落としたり他者との溝を深めたりする可能性があります。

例えば感染症対策ひとつ取っても、「経済か命か」「マスクは善か悪か」など二元論的に語られがちですが、実際には多くの要因を調整するバランスの問題です。にもかかわらず人はつい単純な答えに飛びつきがちです。それは私たちが複雑なものを扱う心の負担に耐えきれず、簡単な物語にすがりたくなるからでしょう。現代社会では、この現実の複雑さ単純化したい欲求とのギャップが、理解の齟齬や対立を生んでいる面もあります。

以上、現代社会における「世界のわかりにくさ」は(1)世界構造そのものの複雑化、(2)共通の物差しが無い価値観の多様化、(3)それに抗するための過度な単純化という形で現れています。こうした状況下で、大人たちが「どうも世界が掴めない」と感じるのは、もはや自然な反応と言えるでしょう。では、そうした複雑な世界観に対して、人々の意見や態度はどう分かれているのでしょうか。次に賛否や対立するポイントを見てみます。

4. 賛否・対立・矛盾するポイント

「大人になると世界がわからなくなる」というテーマに関しては、様々な立場や議論があります。その中から代表的な対立点や矛盾点をいくつか挙げて整理してみましょう。

(A) シンプル派 vs. コンプレックス派

一つ目は、世界をシンプルに捉えるべきだとする立場と、世界の複雑さを受け入れるべきだとする立場の対比です。

  • シンプル派の人々は、「物事は本当はシンプルだ」「余計に難しく考えすぎるのはよくない」と主張します。例えば「人生は結局○○さえしておけばいい」といった座右の銘的シンプル真理を信じたり、伝統的な教えや宗教・イデオロギーのように明快な価値基準に従うことで安心感を得ようとします。シンプルな理屈で子どもを説得しようとする大人もこのタイプかもしれません。「これが正しいんだ」と割り切れた方が楽に生きられるという感覚は、多くの人に心当たりがあるでしょう。
  • コンプレックス派の人々は、「いや、現実はそんなに単純じゃない」「多面的に考えないと本質を見誤る」と主張します。経験を積んだ大人ほど「正解なんて一つではない」と知っているので、簡単な答えを提示されるとかえって疑い深くなります。極端に単純化された意見に対して「それだけでは解決しない」「背景にはもっと複雑な事情があるはずだ」と感じるのです。こちらの立場の人は、安易な納得よりも不確実さを保留する態度を重視します。

両者の間にはしばしば摩擦があります。シンプル派から見ればコンプレックス派は「考えすぎで行動が遅い」「屁理屈ばかりで決断しない」ように映るかもしれません。一方、コンプレックス派から見ればシンプル派は「深く考えずに乱暴に物事を切り捨てている」「現実を直視していない」ようにも思えます。この対立は職場や家庭、社会のあちこちで見られます。例えば職場で新プロジェクトについて議論する際、「とにかくやってみよう!」とシンプルに進めたい人と、「リスクや課題を洗い出して慎重に計画を」と複雑な検討を求める人が衝突する、といった具合です。

実際にはシンプルさと複雑さのバランスが重要なのでしょう。複雑な背景を理解しつつも、それをどう咀嚼してシンプルな指針に落とし込むか。このバランスが上手な人こそ「大人として賢い人」と評価されるのかもしれません。しかし誰もがそこまで上手に割り切れるわけではなく、多くの大人はこの振り子の間で揺れ動きながら模索しているのが実情です。

(B) 「知るほど迷う」は良いことか悪いことか

二つ目の論点は、知識や視点が増えることで迷いが生じるのは良いことなのか、それとも問題なのかという点です。

一方では、「迷い悩むのは成長の証」と前向きに捉える見解があります。これは後述するように、迷うこと自体が次の新しい生き方への変化の前兆だという考え方です。確かに、何の疑問も抱かず生きている状態はある意味子どものような無邪気さかもしれませんが、それでは自己成長は止まってしまいます。大人は常に試行錯誤し、自問自答し続けるからこそ新たな知恵を得られるとも言えます。「知らぬが仏」という言葉もありますが、無知のままでは問題に気付けず改善もできません。迷いや悩みは痛みを伴いますが、それを通じて人は深みを増し、他者への共感も生まれるというポジティブな側面があります。

他方で、「迷いが多すぎるのは生きづらさに繋がる」と懸念する声もあります。あまりに何でも相対化して「結局何がしたいのかわからない」状態が長く続くと、自己喪失感や無力感につながりかねません。「もっと単純に考えて行動した方が人生は楽しく充実するのでは?」という主張も一理あります。現代はストレス社会とも言われ、複雑な問題を抱え込みすぎてメンタルヘルスを崩す人もいます。そう考えると、適度に楽観的・単純に割り切って考える能力(いわゆる「鈍感力」や「楽天性」)も大人には必要だ、という意見になるでしょう。

この論点は突き詰めれば「幸福に生きるには真実を深く知るべきか、それともある程度は鈍感でいるべきか」という哲学的問いにも繋がります。ソクラテスは「無知の知」(自分が何も知らないと知ること)が知恵の第一歩だとしましたが、知らなければ感じなくて済む苦悩も確かにあります。結局、深く考えることと楽観的になること、両方のバランスをどう取るかが各人に問われているのでしょう。

(C) 社会の期待と個人の欲求のギャップ

三つ目のポイントは、社会から期待される役割と個人の内なる欲求とのズレです。大人になると、自分の心が本当に望むことと、周囲から求められる「やるべきこと」が離れていく場面が増えると言われます。これは多くの大人が抱える内面的な矛盾です。

例えば、日本では「〇〇すべき」という社会通念が数多く存在します。良い学校に進学すべき、就職すべき、結婚すべき、空気を読んで和を乱さないようにすべき…枚挙に暇がありません。本人がそれを望んでいなくても、「大人なんだから我慢してやるのが当たり前」と半ば強制的に期待される場面もあります。その一方で、個人の価値観が多様化した現代では「自分のやりたいことを追求したい」「自分らしく生きたい」という欲求も強まっています。社会的役割の重圧 vs. 個人の自己実現というせめぎ合いが、現代の大人には常につきまといます。

このギャップは人によっては強い葛藤となり、「自分は本当は何がしたいのかわからない」という迷いを生みます。例えば仕事と家庭の両立に悩む人は、「家族のために収入を稼がねば」という責任感と「自分の時間も欲しい」「やりたい仕事ではない」という個人の思いとの間で引き裂かれるような思いをするかもしれません。また、親世代から敷かれたレールと自分の夢との間で葛藤する若い大人もいます。このようなケースでは、どちらかを選べば一方が立たず、結局どう生きても何かを諦めねばならないと感じられて「どう生きるのが正解かわからない」状態に陥ります。

社会からの期待をすべて跳ね返して自分の道を行く人もいれば、逆に自分の欲求を押し殺して周囲に合わせる人もいます。しかし多くの場合、その両極端は難しく、現実的には両者のバランスを模索することになります。その過程で「迷い」は避けられません。要するに、大人の世界には避けがたい矛盾やジレンマが内包されており、それが「世界がわからない」という感覚の根底にあるのです。

5. 個人の生活感覚とどうつながっているのか

ここまで社会全体の話をしてきましたが、このテーマは私たち一人ひとりの日常の実感と深く結びついています。では、「大人になると世界がわからなくなる」という感覚は、具体的に日々の暮らしの中でどのように現れているのでしょうか。

日常に潜む「あれ、わからない…」の瞬間

誰しも日常生活の中でふとした違和感を覚える瞬間があります。例えば職場で上司の指示に「どう考えても筋が通らないのになぜ従わなければ?」と納得できなかったり、子どもに「なんで勉強しなきゃいけないの?」と問われて答えに窮したり。ニュースで連日報じられる政治や経済の問題を見ても、「結局何が正しくて誰を信じればいいのか…」とモヤモヤすることがあります。

こうした小さな「よくわからなさ」の積み重ねが、実は私たちの生活に広がっています。特に30代も後半になってくると、ある程度人生のパターンができてきますが、その分ふと立ち止まった時に「このままでいいのだろうか」という問いが頭をもたげます。忙しさに流されている時は気付きませんが、少し心に余裕ができた瞬間に、自分の人生を相対的に見つめ「何か違うかも…」という感覚が湧いてくるのです。これは前述したように社会的役割と個人の欲求のズレから来る迷いでもあります。

大人の頭はランプ、子どもの頭はスポットライト

日常感覚の違いを端的に表す例えに、「大人は360°のランプ型、子どもは一点集中のスポット型」というものがあります。ある子育て経験者は、自身の3歳児との生活から、大人と子どもの世界の捉え方の違いを次のように説明しています。「大人はあらゆる方向に注意の網を張って生活している。しかし子どもは目の前の一点しか見えていない」。

例えば大人が朝出かける準備をしているとき、頭の中では「あれもやらなきゃ、これも片付けないと、そういえば昨日○○するの忘れた」と注意が散漫になりがちです。常にあちこちに気を配り、「今」より先の予定や過去の用事に思いを巡らせているのが大人の脳内です。ところが子どもは「今この瞬間」に全エネルギーを注ぎ込みます。出かける直前でも目についたおもちゃに夢中になり、大人がどんなに先を急かしても通じません。子どもにとっては「未来の予定」や「大人の都合」より、目の前の遊びが全てなのです。

この違いは、大人になると世界がわからなくなる一因でもあります。つまり大人は広い範囲に目を配れるがゆえに、かえって目の前の世界がぼやけてしまうのです。ランプの光は全体を照らす反面、一点あたりの明るさは弱まります。同様に、大人は人生の様々な要素(仕事・お金・人間関係・将来・世間体 etc.)を同時に考えるため、一つ一つに明確な答えを出しにくくなります。「あれもこれも大事だけど両立できない」「何を優先すべきか迷う」といったジレンマが生じるのです。一方子どものスポットライトは目の前の一点(例えば積み木遊びや今日のおやつ)だけを強烈に照らします。周囲のことは見えなくても、それゆえに迷いもなく一直線です。よく言われる「子どもの純真さ」「無邪気さ」は、この一点集中ゆえのブレなさから来ているのでしょう。

もちろん大人だって常にフラフラ迷ってばかりではありません。仕事で専門知識を発揮するときや、趣味に没頭しているときなど、スポットライト的に集中する場面もあります。ただ、生活全般を通じて言えば、大人になるほど考慮すべきことが増えて注意が拡散しがちです。その結果、「結局自分は何に集中すればいいのだろう?」と分からなくなる瞬間が増えるのです。この感覚は子どもの頃にはなかった、大人特有のものと言えます。

共感とコミュニケーションのズレ

日常生活では、人との関わりの中でも「分かり合えなさ」に直面します。子ども同士なら単純な好き嫌いで友達付き合いできますが、大人になると利害関係や立場の違いが絡み、他人の本心を推し量る必要が出てきます。職場の上司の意図を忖度したり、友人との会話で空気を読んだりと、表面上はうまく対応していても「本当のところ相手は何を考えているのだろう?」と悩むことが増えます。先に述べたように、下手に経験を積んだ分だけ「こう言っているけど本音は違うのでは」と疑ってしまうこともあります。相手の気持ちをわかったつもりになるのは危険だ…と慎重になるあまり、素直に相手を信じられなくなるジレンマもあります。

また、社会が多様化したことで、自分とは全く異なる背景や価値観を持つ人とも関わる機会が増えました。一つの職場に様々な世代・国籍・思想の人がいるのは珍しくありません。そうすると「なぜあの人はあんな行動をするのか理解できない」「自分にとって当たり前のことが通じない」と感じる場面も日常的に起きます。下手をすると、対立した価値観同士がお互いを糾弾し合うような事態にもなりかねません。SNSを見ればわかる通り、大人同士が全く分かり合えず平行線の議論をしていることもしばしばです。

このように大人の日常には、小さな意思疎通のズレから大きな価値観の衝突まで、様々な「分からなさ」が潜んでいます。それらは放っておけばストレスになりますが、一方でそれに向き合い乗り越えることで人間関係の学びがあったり、自分の考えを見直すきっかけになったりもします。重要なのは、「大人になって世界がわからないと感じるのは自然なことだし、誰しも同じようなことで悩んでいる」と知ることではないでしょうか。そうすれば「自分だけダメなんじゃ…」という孤独感が和らぎ、他の人との間にも共通点が見えてきます。最後に、このテーマを理解することで私たちの世界の見え方がどう変わるか、考察してみましょう。

6. 「わからなさ」を理解すると世界の見え方はどう変わるか

「大人になると世界がわからなくなる」という現象について、その構造や背景を見てきました。では、こうした“わからなさ”自体を理解することで、私たちの世界の見え方や生き方にはどんな変化が生まれるでしょうか。いくつか、考えられるポイントを挙げてみます。

(1) 迷いは成長のプロセスだと捉えられる

まず第一に、迷いや戸惑いに対する捉え方が変わります。自分が世界をわからなく感じているとき、「自分は弱っているのだ」「未熟だからこんなに悩むのだ」とネガティブに捉えがちです。しかし本記事で見たように、実は迷いは次のステージへの前兆である場合があります。大人になって生き方がわからなくなるのは、決して「人生が壊れてしまったサイン」ではなく、「これからの自分に合った生き方を探そうとしているサイン」だという指摘もあります。言い換えれば、心が新しい変化に向けて動き出している証拠なのです。

この視点を持てると、世界がわからなくなって途方に暮れるような時でも、「ああ、自分はいま成長途中なんだな」と前向きに受け止めることができます。迷いが完全になくなることはおそらくありませんが、それを「殻を破る前の揺らぎ」と理解できれば、過度に不安に陥らずに済むでしょう。むしろ、新しい自分に出会うチャンスだと考え、静かに自分の心の声に耳を澄ませる余裕が生まれるかもしれません。

(2) 他人も自分も「わからないものだ」と受け容れられる

次に、不確実性や多様性を受け容れる度量が育つという点があります。世界に絶対的な正解がないと知ることで、人はかえって謙虚になります。他人に対しても「この人のことを完全にはわからないかもしれない」と思えるので、安易に決めつけたりジャッジしたりしにくくなります。その結果、意見の違う人とも「自分とは視点が違うだけかもしれない」と対話を試みたり、相手の立場を想像したりする姿勢が生まれます。現代のように価値観が多様な社会では、この不確実性耐性とも言うべき心構えがとても大切です。世界がわからないことを嘆くより、「わからないことが前提の世界」でどう協調し学び合うかに意識が向くようになるでしょう。

また自分自身についても、「完璧にわからなくて当たり前」と肩の力を抜けるかもしれません。若い頃は「自分探し」に躍起になったり、自分の本心はこれだ!と一度決めつけてしまったりしがちです。しかし年を重ねると、人は環境や経験によって変化すること、つまり自分も固定的な存在ではないとわかってきます。それを否定的に捉えるのではなく、「だからこそ人生には何度でもやり直しや新しいチャレンジができるんだ」と前向きに解釈できれば、世界はもっと開けた場所に感じられるでしょう。実際、「大人になったからこそもう一度自分の生き方を選び直す自由がある」との指摘もあります。一度決めた道に縛られる必要はなく、大人には選択肢がむしろ増えているのだという視点です。

(3) 永遠の「仮説」と付き合いながら前に進める

世界のわからなさを理解するということは、裏を返せば世界を完全に理解することはできないと認めることでもあります。これは一見諦めのようですが、実はとても大事な転換点です。なぜなら、そう認めた上で初めて、人は不完全なまま進む勇気を持てるからです。

完璧に分かってからでないと行動に移せないと思っていると、いつまでも立ちすくむことになります。しかし大人になるということは、「完全にはわからないけれど、とりあえず現時点の理解で動いてみるか」といった暫定解や仮説で走り出せる柔軟さを身につけることでもあります。人生において重要な決断(就職、結婚、転居 etc.)も、確信を持てないまま選ぶ場合がほとんどです。世界の不確実性を受け容れた人は、その都度ベターだと思う方を選び、後で状況が変わればまた軌道修正すればいいと考えます。これは投げやりではなく、「絶対の正解はないから最善を尽くしてアップデートし続けよう」という前向きな態度です。

むしろ危険なのは「世界はこういうものだ」と早合点して思考停止してしまうことです。現代のように状況が次々変わる社会では、一度得た正解もすぐ陳腐化するかもしれません。常に仮説検証を繰り返すくらいがちょうど良いのです。そう考えられるようになると、未知のことに対する不安が和らぎ、わからないことを楽しむ余裕すら生まれるかもしれません。「世の中には自分の知らない面白いことがたくさん隠れている」と捉えれば、世界は不安に満ちたカオスではなく、探索しがいのあるワンダーランドになります。子どもの頃に感じていた未知の世界へのワクワク感を、大人になってもう一度取り戻すことにもつながるでしょう。

おわりに:現時点での理解

「なぜ大人になると世界がわからなくなるのか」という問いについて、社会・歴史・個人の視点から考察してきました。結論をひとことで言い切るのは難しいテーマですが、現時点での理解をまとめてみます。

現代に生きる私たち大人は、かつてないほど複雑で変化の激しい世界に直面しています。そのため、大人であっても常に初心者のように学び続けなければ世界についていけないのが実情です。知れば知るほど新たな疑問が生まれ、正解が一つでないことに気付く──その結果「自分は何もわかっていないのでは」と感じる場面が増えるのでしょう。しかしそれは悲観すべきことではなく、謙虚に学び成長し続けている証拠でもあります。

また、大人になると抱える役割や選択肢が増えるぶん、心が迷子になる瞬間もあります。けれど、その迷いは新しい生き方を模索するプロセスに他なりません。世界の見通しが悪くなったと感じた時は、「今の自分にとって本当に大切なものは何だろう?」と立ち止まるチャンスでもあります。人生の節目節目でそうした問い直しを繰り返すことが、現代社会を生きる上でむしろ健全な適応なのだといえるでしょう。

要するに、大人になって世界がわからなくなるのは不可避な側面があり、同時にそれとどう付き合うかが問われているのだと思います。完全に分からないままでも一歩踏み出す勇気、違いを受け入れ共に学ぶ姿勢、自分なりの仮の答えをアップデートし続ける柔軟性──そうした「大人の知恵」が、混迷する世界の中で光るランプになるのかもしれません。

最後になりますが、私たちは往々にして「わからない」自分を責めがちです。しかし本稿で見てきたように、それはごく自然なことであり、多くの人が通る道です。むしろ「よくわからない」という感覚を出発点に、世界と自分を対話し続けることこそが、大人になった私たちに残された大切な冒険なのでしょう。世界が少しわからなくなったくらいで立ち止まらず、かと言って無理に単純化せず、時には迷いながらも一緒に考え続けていければ――その先に、今より少し広い世界が見えてくるのではないでしょうか。

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