5月23日 盛夏かな食卓赤き皿うどん

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4時起床。朝飯、ヨーグルト。今日は妻が出張らしく朝早く準備をしていた。7時妻と家を出る。出社。昼休み、背中筋トレ。昼飯、皿うどん。皿うどんについては言いたい事がある。過去に何百回も言われていることかもしれないが、『皿うどん』という名称は一体如何なものか。麺は見るからにうどんでは無い太さだし、皿に載ってはいるが、皿に載ってることよりも餡かけだったり麺を揚げている事などもっと伝えるべき事があるだろう。皿うどんを知らない人がメニューに皿うどんと書かれていたら、想像するのは間違いなく焼うどんのはずだ。今焼うどんと書いて思ったが、『焼うどん』というのはなかなか良いネーミングだ。麺はうどんだし、焼きという言葉を入れる事でうどんを茹でているのではなく焼いているという事が想像できる。もちろん焼いているので出汁はなく、皿もしくは鉄板に乗せていると容易に想像できるだろう。それに比べて皿うどんとはなんなのか。だいたい、皿うどんと名乗りながら丼で出してくるところもある。そうするともう、うどんでもなければ皿でも無い、一体何がなんだかわからない料理になってしまう。私が皿うどんの命名者だったら何故あの料理に対して『皿うどん』という名前をつけたのかを考えてみる。本来であれば『餡掛揚蕎麦』と名付けられるべきであろう。そんな皿うどんは一体如何にして『皿うどん』といううどんじゃなければ皿でも無いことがあるちぐはぐネームになってしまったのだろうか。考えた結果、一つの案が浮かんだ(この、案、というのは皿うどんの餡にかけたものだ)。まず作者像を想像してみると、皿うどんの作者は現代うどん協会の若手会員で最初は客観写生なうどんを主に作っていたのだと思う(皿うどんも最初は餡掛揚蕎麦だったはずだ)。しかし、おそらく毎月のうどん会(相互に匿名でうどんを出し合って非評する会)で、重鎮の老人たちに「何が言いたいのかわからない」とか「貴方のうどんは平凡ね」とか「こんなものはうどんでは無い!」とかと言われ続けたのだろう。それでいてそのうどん会では『虚無のうどん』とか『我が愛のうどん』とか『少年と夏のうどん』みたいなふざけたうどんが高得点うどんになることに憤りを感じ、その若手はうどん会を辞めようかなあなんて思っていたのだと思う。辞めようと思ったら開き直ったうどんもできるのであろう、それでできたのがこの『皿うどん』。その時の心境は、こんな腐れうどん壇なんて知るか!という心境だったに違いない。そしてその『皿うどん』をうどん会で出したらなんと大ウケ。そう実は、うどん会の老人たちは若手の辞めようかなオーラを感じると、手のひらを返して褒め出すのだ。「こんなうどんは見たことがない!」とか「この揚げた細麺と餡の中にうどんの心を感じる…」などとしみじみ言ったのだろう。そしてそのまま名前は『皿うどん』で定着したというような感じではなかろうか。本当のことは調べたらわかるかもしれないが調べはしない。本当のことがわかることがいつでも良いこととは限らないからだ。私は皿うどんの命名の真実をこう考えたのだ、それでいいじゃないか。定時退社。帰り道、コンビニでモーニング立ち読み。マガジンも読みたかったがなかった。夜ご飯、漫画を買う。帰宅。夜飯、ファミチキとホットスナックのチキンステーキ。妻がいない夜はステーキか寿司が多いが、今回はぐっと堪えた。西森博之の短編集を読む。『甘く危険なナンパ刑事』から考えると描きたいものが変化しているというのがわかる。だらだら。12時就寝。

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