足早に特別展の雛祭

散文
スポンサーリンク

美術館の特別展に設えられた雛飾りは、古びた硝子の向こうに静かに並んでいた。ひとつひとつに名を持つ人形たちが、幾度もの春を超え、今この場所に収められている。緋毛氈の赤は少しくすみ、金屏風には光を吸った古い空気が染みついている。それでも、ひな人形の顔はどれも穏やかで、微笑みとも静寂ともつかぬ表情を浮かべていた。

訪れる人々は、その前を足早に通り過ぎる。けれど、早足のなかにも、ほんのわずか足を止める気配がある。立ち止まるほどではないが、ふと目を向け、何かを思い出すように視線を預ける。その瞬間、雛人形たちもまた、わずかに息を含んだように見える。

雛祭りは、華やぎの奥にかすかな寂しさを帯びている。祝うために飾られ、そして季節が巡れば静かに片付けられるもの。特別展のケースのなかで、人形たちは片付けられることもなく、季節の記憶を幾重にも重ねている。早足で通り過ぎる人たちに、その記憶の一片が触れているかもしれない。

春はいつも、一瞬のなかに息づく。誰かの足音が遠ざかるころ、ガラス越しに見えた雛人形の手もとに、光がひとすじ落ちる。見送る者も、見送られる者も、声にはならない言葉を胸に抱えたまま、また次の春へと足を向ける。

コメント

タイトルとURLをコピーしました